知識基盤社会とはなにか?文明史的観点からの個人的素描。

10月になり、ゼミも始まり、あと就職活動をすることにしたので、割にリッチに思考する時間をあまり持てないので、早速ブログが滞り始めています。

とまぁ、そんなくだらないことを考えながら、自分が卒業論文の時点でどういった思索を持っていたかを確認するため、半年ぶりに読み返してみたりしました。原点回帰的な意味も込めて。



まず、僕が当時持っていた感覚を思い出す。


僕の卒業論文が具体的に何をテーマとしていたかというと、

社会構造を静的なものとして捉えたとき、社会構造の変動そのものを当為的にデザインするという動的作動こそが教育という作動ではないのか?という捉え方をしてみたい。

というものでした。


その後、院入学の4月までの間にルーマンの社会システム理論に出会い、その理論をある程度援用することで上のような自身のテーマを定式化することができるな、考え始め、
現在は、人類の進化をシステム論的にとらえたとき、人類システムの進化において教育という作動がいかに構造構築的オペレーションを行ってきているかを理論次元で一般化してみよう、
ということを修士論文の大きな枠組みとして措定するに至っています。




このように人類システムの進化という大局的な目線を持ったとき、人類史そのものを納得のいくいくつかに段階分けをする必要を感じ、
マクルーハン的メディア論をベースにしながら、プラトンあたりを指標にする「第一次仮想」が存在するようになった文字以後の段階、20世紀中葉以降(もしくは量子論が生まれた頃からともいえる)の不確実性ベースの時代でありエクリ×エクリが出てきて「第二次仮想」が当たり前になってきた段階、という文明進化の段階を仮構しようと考えるようになっています。*1
要は、文字以前と文字以後、さらに情報化以前以後というメルクマールを挿入して、三段階に文明をとりあえず区分しているんです。




「仮想」というキーワードでもって文明を語ろうとすると、必然的に僕は「脳」機能の外在化過程として文明を見ているということになります。
というよりは、記号の領域を見ていると言った方が正しいのかもしれないです。
たとえば、文字という「第一次仮想」は僕たちの思考を視覚的に抽象し外在化しているし、「第二次仮想」を構築するデジタル信号は文字のようなエクリチュールを記述して構築する僕たちの脳神経的ファンクションを外在化している*2


一方で、既存の古代や中世や近代や現代という区分は、「第一次仮想」的脳の時代におけるわれわれのモノの領域に着眼した考え方だと縮減して考えられるように思うのです。
西欧的な意味での古代から中世、近世、近代という流れは、皇帝とそれ以外、聖職者とそれ以外、封建領主とそれ以外、官僚とそれ以外、啓蒙された市民と他国の奴隷、という形で「第一次仮想」の技術である文字使用の拡大過程であると言うことができると思うのですが、
この流れにおけるわれわれの文明の進化過程は、そういった記号処理をできるかどうかの前提である物質的・モノ次元での条件に制約される要素が大きかった。

それゆえ、既存の古代〜現代という枠組みは、脳の進化史的に見れば「第一次仮想」と呼べる一時代に括られ得るにもかかわらず、「第一次仮想」にリーチするための物質的・モノ次元での条件に厳然たる格差が存在したため、様々な権力格差が経済格差と結びつきながら存在していた時代であり、モノ次元での考え方が重要だった時代と言うことができるのではないか?
つまりはマルクシズム的な考え方が基底的に通用していた時代だともいえるのかもしれない(このあたりは憶測です)。
(当然今も残存するそれらの経済=権力格差の記憶に取りつかれ、世界はパワーという構築物にすがる「第一次仮想」が見せる幻想から目覚めていないが)。




しかし、現代における「第二次仮想」の時代への移行期においては、第二次仮想によって何を表象するのかこそが基底的指標となる時代であるし、つまりは「知識」と呼ばれるものと、その「知識」を構築するセンスである「知恵」がベースとなる時代だと言えると思うのです。

流行のことばに乗っかるならば、「知識基盤社会」とは、「第二次仮想」の時代である。と言い換えることが当然できる。

もしわれわれが本当に、情報化社会を語ろうとし、イノベーションを語り、21世紀を語るのであれば、僕はやはり「第一次仮想」から「第二次仮想」への転換という2500年期をひとつの大きなベースとして見る必要があると思う。




だから、価値の基準そのもの、つまりは経済指標と呼ばれるものが当然根幹から転換すべきだと思うし、
前回の日記で触れた、鈴木健のPICSY*3や、スティグリッツサルコジに提出した新しい経済指標*4への試みは非常に注目すべきなんだと思う。

キーワードはやはり、「知識」をベースにした遊びと、地球的な目線での「環境リスク」(=第一次産業)の二つかなぁと。
それに付随し、当然現在の社会インフラをより「環境リスク」とすり合わせるための産業的イノベーションも超重要なわけで(結局、「知識社会」は産業インフラに依存するわけで)。



「知識」と「環境リスク」をベースにした、新しい経済指標を構築すること、
そして、既存の利害を乗り越えてそれらを適用できる世界的連携をマネージメントすること。




最後の問題が、一番難しいから、結局外交やらなんやらはうまくいかんのよね。
僕が考えてるようなことをあたりまえにわかっている人たちがずっと行動し続けて、世界は今もこの状態なわけで。



という意味で、政治的な意味でもオープンソーシャル的な「場」やアーキテクチャをいかにデザインするかは、その環境規制力という中立的権力の持つ力の大きさとして、すごく大切だなぁと。
当然それらを構築するメタ知識人達のリテラシーが重要。そういう意味ではデジタル世代はある程度中立性において信頼はできるし、信頼できる寡占的独裁者の競合関係もうまく生まれつつあるように思う。


なんにせよいかにこういったメタ知識人的リテラシーに自覚を持って、いかにそれをビジネスライクに実現することのできる人間に成長できるか。
ソーシャルアントレプレナーシップみたいなものと、ビジネスをマッチングさせながら変化の波に乗り、個人としても今の激動の時間を乗りこなす。
今後20年の文化担体は企業と市民団体になると思っているから、自身の身の振り方は非常に重要だし、それしだいで僕は野垂れ死にもすればひとりの大きな人間にもなれる。



だから、就職先は吟味しなければならないなぁと、考えています。(結局現実的にはそこかよ、っていう)。





うわー、また、まとまらんくなってまーた!!!!

*1:「第一次仮想」と「第二次仮想」というタームに関しては、9月27日の私自身のブログにて解説しています。→http://d.hatena.ne.jp/knife0125/20090927/1254059515

*2:コンピュータサイエンス認知科学がコンピュータを人間の思考を外在化するツールとして構想していたという彼らの意図を無視しても、実際にコンピュータ的ファンクションは脳との対比で語りうるように僕は思う。確かにまだまだ不完全ではあるけれど。

*3:http://www.picsy.org/

*4:http://newsweekjapan.jp/stories/business/2009/09/post-569.php