「孤」と「個」、「分人」と「個人」、自走する自己とコミュニケーション
「孤」と「個」というキーワードについては、『攻殻機動隊 Stand alone Complex』*1(『攻機』のテレビアニメ版)の初回のオープニングで以下のように表示される。
あらゆるネットが眼根を巡らせ
光や電子となった意思を
ある一方向に向かわせたとしても
“孤人”が
複合体としての“個”になる程には
情報化されていない時代・・・
「分人」と「個人」というキーワードについては、平野啓一郎『ドーン』*2において提示されている。
「分人=dividual」と「個人=individual」。
仮想空間が現実に存在するようになって生まれたものは、
(機能)分化した“孤人”(分人)が同時並列的に存在するようになるという事実。
つまり仮想的自己の“孤人”(分人)が、自走的自己*3として並列的に存在し、
「個人」は並列的「分人」を同時並列に処理する必要に迫られる。
「分人」的発想は、ジンメルが「大都市と精神生活」を著したような時代から当たり前にある発想で、
「個人」は様々に機能分化した「分人」を、時間軸において使い分けるという生活を当たり前のようにしてきている。
だから、特に新しい発想ではない。
今の社会での新しさは、同時並列的な「分人」を内包するという事実。
そして、同時並列的な「分人」の存在も、デジタルネイティブたちにとっては、自明の環境でしかない。
デジタルネイティブのような存在が一般化してくるのが2010年代というこの10年期。
そこでその流れを先読みしてキャッチアップする方法は?
①「分人」を常に手元で監視できるという意味でのモバイル環境の充実。(具体的にはモバイル系デバイスの発達と、そこでの通信インフラの拡充、さらに電波で処理できるだけの軽快さを有するコンテンツの拡充)
②「分人」と「個人」が仮想的に同期できるような、仮想空間の構築。(新しいセカンドライフ、ミクシーアプリのような擬似同期的ゲーム、ソーシャルネットワーク)
③時間性を有するアクティビティへのコミットメント。(育成系のゲーム(ミクシの牧場ゲームみたいなの)、友人との同期性、時間的体験を伴うアクティビティ)
このへんまでも常識的なレベルで共有されている事実なので、大して面白みもないですね。しかも非常に抽象的。
あとは、ARとかの添加現実における、存在と認識の多重空間における立法や規制、帰責先などを考えるにあたって、
法律が先回りできるのか、教育が先回りできるのか、企業などの現実的設計が先回りできるのか。
個という多数なるものを社会という一者が包摂する時代から、
孤という多数なるものを、個という一者が包摂しながら社会という次元で連帯する時代への流れ。
連帯におけるガバナンスは、オープンな仮想空間で自走するのか、
連帯におけるガバナンスは、企業、市民団体、残存する国家主権などとも連携するのか。
一般化したデジタルネイティブ達が社会を設計する立場になる(40代〜50代になる)頃=2030〜2040年頃には、
既存の国家や民族などのような枠組みにおける、「枠組み」という概念そのものがどういう風に変容しうるんだろうかということを考えると、
あまり変わらないような気もするし、コペルニクス的に転回している気もする。
吉田民人は「認識科学」と「設計科学」という風に学問をふたつの枠組みに分節していたが、
僕は間違いなく「認識科学」にとっぷり足を踏み込んでしまっている。
だからこそ認識できることはたくさんあるように思うが、そこから「設計科学」に没入するような発想をどれだけ有意に導き出せるのかは、体験してみないとわからないな、と、率直に五里霧中な感じです。
*1:[rakuten:s-premium:10008588:detail]
*2:
*3:以下の書で荻上氏は、ウェブにおけるコミュニケーション空間を自走するコミュニケーション空間と呼称しています。