ウェブ社会は信頼社会なのか、安心社会なのかということ。
昨日の深夜、と、今日の夜と、池田信夫氏のブログを簡単にチェックしていました。
というのも、池田氏の著書である『ハイエク、知識社会の自由主義』
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ハイエクの市場原理への言及はGLOCOMあたりでもよくなされており、池田氏自身もGLOCOMの研究員をなさっていた経歴を持っていたり。
なんにせよ、知識社会化していく社会において、そこでの新しい経済原理においてハイエク的な自由市場原理への信頼感はいろんなところで言及されている。それゆえまずとっかかりとして、読んでおくべきだとも思っているわけです。
しかしまぁブログをチェックしている中で、明らかに僕とは真逆の発想から池田氏がウェブ社会を、というよりは未来の社会を捉えているのかもしれないという記事を散見するにいたったわけです。
少し古いエントリーでそれを発見し(2008年4月)、それに関連するエントリーを検索したところ、2009年6月以降にも同様の観点を持続させているエントリーを書かれているので、そこに関しては少し考察をしておかねばならないなと思ったわけです。
単純に一番はじめに引っかかった部分はhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/559e23abed5ee4729bdd8b404f10bf11、
好むと好まざるとにかかわらず、日本は「みんなと同じ」を行動原理とする安心社会から、「フェアプレー」を行動原理とする信頼社会に移行せざるをえないのである。
という、2008年4月5日のエントリーです。
その後、引用はしないですが、2009年6月21日http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/de963cfd6ffb968d7deec16bb65ae6f7、2009年8月28日http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/8c0f4f37800d4ba31f00651ee1d40693のエントリーなどでも、池田氏は安心社会ではなく信頼社会(=友愛社会)への移行こそ望まれるというような観点からブログを書かれている。
しかし、僕はウェブによって構築される新しい繋がりの空間を、安心社会的ゆるやかな繋がりの無限の可能性の広がりの世界だ、というような捉え方をしているのです。
たとえば、ウェブにおけるトリビアルなオタク的コミュニティや、趣味におけるゆるやかな連帯を持ったコミュニティなどは、信頼社会ではなく完全に安心社会であると言えると思います。
対話的に信頼構築を能動性を持って行う必要に迫られるのではなく、そもそもの嗜好性の共通性を担保されたつながりであるが故にそれは安心社会的なつながりであると。
そしてそれらが自明の環境と化していく先の世界は、そういった仮想コミュニティに安心社会的要素が現実空間にも逆輸入されてくる要素が強くなってくるゆえ、信頼社会がベースになっている現実空間も長期的な未来予測としてはむしろ安心社会的な存在になっていくと。
単純に、信頼社会の要件が何かというと、個が個として厳然として存在するということであるでしょう。
一方、安心社会の要件は何かというと、個が個として存在することではなく、そこでは個の存立そのものが溶解しているかのようになっていることである。安心社会とは、個と個の存在の場による規定性が非常に強い「ムラ」的社会であると言えるでしょう。
さて、ここで提起したい問題は、本当に日本は世界の信頼社会に迎合するかのように信頼社会化を目論むべきなの?ということです。
当然のことながら、新しい知識社会を構造として構築するためには、信頼社会的な価値観を有して構造構築をするにたる知識人的ふるまいが要請されるでしょう。まさにそれは池田氏のような立場の人に要請されるリテラシーだとは思います。
それだけではなく政治家、企業の経営レベルの人間、グーグルとかマイクロソフトの人間、法律家などにはあまねく必要とされるリテラシーだと言える。
けれど、一般的な生活者レベルの価値観は、なんとなくの繋がりをベースに持った安心社会的なものへと傾いて行くのではないか?という風に僕には思えてならないのです。
それは世界がむしろある種東洋的というか、日本的というような安心社会の方向へ向かいつつあるのではないか?という風に僕には見える。
梅田望夫と平野啓一郎の共著『ウェブ人間論』*1や、梅田氏の『ウェブ進化論』*2を昨日と一昨日に読んだのだが(今更ですが)、
そこから見てとれるオープンソース的な価値観は、非常に安心社会的な価値観ではないのか?と思えてならない。
そして、新しい世代として目されるデジタル世代というよりは、インターネットネイティブ的な世代は、もっとあたりまえにオープンソース的な世界観をもった世代として今後僕たちの眼前に出現してくるように思う。それも世界中で。
デジタルな世界において重要なことは、
情報が複製可能でありどこへでも伝播しうるが故に、そのオリジナル性というものがもはや根本的に問題にならなくなるということだと思う。
言いかえれば、個が個であるという意味すら失われつつあるのがデジタルな世界なんだと言えると思います(当然そこで著作権うんぬんという問題=100年先から見ればくだらない争い、に人間は奔走するわけですけど)。
オリジナルなきコピーが自走性をもってオートポイエティックにオペレーションしながら出回るが故に、オリジナルという概念にこだわることがナンセンスになるのがこれから先なわけで、その中で個がいかにアイデンティティを形成するかは非常に重要な問題ですけど、それはまた別の問題ですね(また後日)。
個が個であることをアイデンティファイすることそのものが問題にすらならないような世界へと作りかえられている世の中で、個が個であることを前提にする信頼社会をベースに思考することにどれだけの意味があるのかということが、僕には多少疑問点として残るわけです。
ただ、確かにここで僕が留意しておくべき点がひとつあります。
僕は未来を50年〜100年というスパンで見ているが故に僕のような考え方を持っているだけであり、
近未来へ向けた数十年*3という観点でみるなら、実際のところ池田氏と同じような目線で世界を見ることの方が妥当性は高いということ。
その点は冷静にこのエントリーを書く意義を俯瞰する上で重要だと思ったので補足しておこうと思います。
*1:[rakuten:book:11979772:detail]
*2:
*3:個人的には2030年をめどに考えているのですが、それについてはまた別でエントリーを書くことします