さて、いよいよ明日は第一回ウェブ学会である件について。


12月7日(月)9時〜18時、第一回ウェブ学会@東大本郷安田講堂
http://web-gakkai.org/

一か月以上前から、これを待ちつづけていたと言っても過言ではない。
1200人の入場者の中で、割と早い100番台で申し込みをしたし、待ちに待ったというウェブ学会。
知の構造化」、「一般意思2.0」などを本気で議論し始めるメルクマールともなるだろう第一回ウェブ学会。
もちろんもっと現実的な議論として、ヤフーやグーグルやマイクロソフトはてなのCTOなどが中心のシンポジウムの開催されるよう。


・ウェブ学会の模様は中継されているようです。(ニコニコ生中継が入るかもと思ってたけど、今回はニコニコじゃなかったか。。)
⇒ウェブ学会シンポジウム主催者より
「本シンポジウムは Ustream によるインターネット中継を予定しております。アドレスは当日お知らせいたします。」

ツイッター利用者は以下のハッシュタグを追えば議論の内容を中継してくれる(tsudaってくれる)人が沢山居るはずなので、興味がある人はぜひ。僕は今回はシンポに集中するためtsudaらない予定ですが、できるときはツダります。
⇒ウェブ学会シンポジウム主催者より
「講演に関する質問・コメントを Twitter 経由で受けつけております。投稿の際にハッシュタグ #webgakkai を付加してお送りください。」、また本シンポジウムの公式Twitterアカウント @webgakkai にて最新情報を更新しております。


以上、ウェブ学会の紹介。
時間のある人は恐らく中継でもツイッターでも議論をフォローしておいて損のないものだと思います。






ここからは個人的雑記。


ウェブによって与えられている社会の改変は、ウェブ学会の開催のお知らせでも述べられているように、「技術、学術、ビジネス、制度、文化が一体となって進化」させられるものであり、あらゆる領域での人間の社会を改変していると思います。


単純にメディア論的な視座に立ってそれらを概観した時、
仮想的な世界というものはそもそも文字などの抽象記号が存在するようになって初めて存在するようになってきたわけです。
それまでの時代においては当然ですが、人間の世界はイデアやミメーシスといった二つの次元に別れることすらなかったと考えられます(あくまで仮説)。


けれど、
「知」と呼ばれるものが外部記憶に保存しうるようになったこと、
その保存形態が石板、パピルス、羊皮紙、紙と変化してきたこと、
それら保存形態に対して保存するためのデバイスとして、石、ペン、活版、キーボードと進化してきたこと、
さらにそれらをより効率的にどれだけ複製しうるかということ(例えば※産業革命*1
我々にとっての世界認識の論理構造そのものがそれらの組み合わせにより変化させられてきたこと、

など、文明にとって以上のようなものが根源的影響力を保持してきた歴史が存在することを考慮に入れると、現在のウェブ技術は根本的にわれわれの知そのものの存在形態を変形させているうえ、そのインパクトの大きさは恐らく渦中に生きているわれわれの想像をはるかに絶するものとなって行く可能性を持っていると思っています。





現在のところ、ウェブがわれわれにとってその可能性に比してインパクトを与えていない理由は、おそらく、
①インターフェースが紙の次元(平面の次元)を超えていないということ(テッドネルソンの指摘)
②ウェブ上の知のセミラティックな構造が我々にとって現状は可視的ではないこと(目に見えない変化には一般レベルで人びとは気付かない)
③技術の動向に対して人間の想像力それ自体が追い付いていないこと

の3点が大きいと考えています(これら要因はもっとたくさん想定されるはずですが)。




知の保存媒体(紙とか)が変化すると、
知をどういった形式で保存するかという「論理」が変化する。
すると、保存の論理が変わることによって、社会の「構造」が変化せざるを得ない。

簡単に言うと、
文字という石造りの土台(=論理)に今まで石造りの建築物(=構造)が立っていたけれど、
急に土台が泥(=ウェブというコミュニケーションの論理)になったから、上にある建築物(=社会構造)を作り変えなきゃいけないよね
って言うくらいの変化が、知の保存媒体の変化には含意されているということが言いたいわけです。


これは恐らく、自明すぎるが故に見落とされがちな部分なんだと思うわけです。






簡単にこれまでの人間の「知」を取り扱う技術というものは、
「本質」的なものから「方法」的なものへ、「本質」的なものから「関係」的なものへ、
と移動してきていると言える。


一神教が分派していくのは、
「神」の本質の下に平等であった時代から、「神」の解釈をめぐる方法の争いへと変化していくからだと単純化することに、ある程度の真理は見いだせるように思える。

そしてそれが大きく揺らいだのが宗教改革であり、末期中世であると言える。


そして近代は、そのな中での神の解釈方法によって争い、そして、神がないのであればその代替物として扱える何かの境界(例えば国民国家、例えば民族、例えば肌の色、例えば性別)を設定することによって、神という本質から解き放たれた個としての人間を枠組みに包摂しようと試み続けてきていると言えると思う。

つまり近代とは、解き放たれた個をいかに境界内包摂するか、を問われていた時代だと総括できると思う(当然一方で、ある程度流動性を確保された個は、個のアイデンティティーというものを欲求することも求められるようになり、近代とは解放と境界付け、解放と緊縛のアンビバレントな時代だったと総括しても良い*2)。



そしてポストモダンと呼ばれる思想の時代が来る。

ポストモダンと言って想定されるのは当然、フランソワ・リオタール、ミシェル・フーコージャック・デリダドゥルーズガタリなど沢山居るし、東浩紀ジャック・デリダ論でデビューしている。

(東さんは置いておいて、)あれらの思想潮流は、単なる近代批判でしかなく、オルタナティブをうまく提示できなかった時代であるし、ドゥルーズなどはある種のオルタナティブを観念レベルでは提示していたはずだが(ここちょっともっかい調べます)、
結局彼の思想は当時として技術的実現可能性がなかったからうまくいかなかったと言われている。


しかし、現在のウェブの技術は、[空間的(国民国家など)、もしくはイデア的(民族や人種あなど)に]枠組みを構築し続けていた近代が、もはや空間においてもイデアにおいても境界や枠組みなど構築できない状況を作り出していて、境界設定不可能な社会の存在論の素地を生みだしていると言える。





簡単に言うと、
仏教以外の宗教における宗教の時代は、全的本質とそれ以外という境界線を(この時代は今も終わっていないが)、
近代以後は、全的本質から解放された個に対し、国民や民族や人種や性別という想念という境界線を、
総括して、文字時代のわれわれは世界にどのように境界線を引くかということを考えつづけてきていたのだ、
ということが言えるのではないかと考えている。


そして、ウェブという技術は、これまでの境界線ありきだった時代に対して、
境界線を引くことの根源的難しさ、という数千年の歴史内においては人類未踏の状況を生みだしている。


そこにおいて、「いかに境界線を引かないことができるか」という命題こそが問われているし、
それを念頭に置いていない学者やトップクリエーターはほぼ居ないように思う。
(ここに建築という行為の難しさが存するわけだが、建築はまず空間ありきをベースの認識とする故、まったき境界なし、という考えを持ちだすことが難しい)








このように総括してきた時に明確になることは、

私たちは近代という時代から新しい時代への飛行途上に立っているということ、
そしていかに新しい時代へのソフトランディングを構想するかということが重要命題であること、
その二点である。





そして、ネクスト近代を構想するにあたって日本はチャンスである。


なぜなら、日本は近代の末路を世界に先駆けて体現している(その意味で日本は近代的な意味では没落国以外なにものでもない)けれど、
新しい時代のフロンティアに日本こそが立っていると言いかえることができるからである。


世界全体を見てみれば、
EUは圏域拡大や地の利によって近代の隘路到来を先延ばしし、
アメリカは述べるまでもなく移民などを含め人口総体は若い、
それ以外のアジア、ラテンアメリカ、アフリカは今が近代化だし、
中東は独自の論理を持ちつつも確実に近代の論理に包摂されている(ある種反西欧近代という枠組みにおいて中東は非常に近代的と言える。これについてはI.ブルマ、A.マルガリート『反西洋思想』などに詳しいかったと思う)。



それゆえ、向こう10年先まではインフラ技術の対外輸出等で日本は持ちこたえたとしても、
完全に既存の枠組みでは没落国になっていくことは間違いない。


そこで既存の枠組みで戦うことが日本の進むべき道か、
一方でまったく新しい時代を構築する方法論の試験場となるか、
日本という国家が進むべき道はその二つに一つしかない。


自分としては、後者を取りたいと思っているし、後者に向かって対決する人間であり続けたいと思う。







そしてこれらすべての記述が、所詮は若者の戯言でしかなく、あまりにもアホらしい。









12月9日(水)は東大知の構造化センターのミーティングに初参加。
http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/


12月10日(木)は、d-laboにて濱野智史と長尾真のトークセッション
長尾 真 氏 ・ 濱野 智史 氏 「これからの知−情報環境は人と知の関わりを変えるか」
http://www.d-labo-midtown.com/d-log-detail.php?id=190


12月14日(月)は姜尚中北田暁大研究室主催「闘争としての政治/信念としての政治」シンポジウム


12月18日(土)は東大UTCP主催「大学における人文科学の未来」シンポジウム
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2009/12/colloque_lavenir_des_sciences/


など、とりあえず詰め込めるものは詰め込んで、年明けからは身体移動は控えめにしながら文字媒体を中心の研究生活に戻ろうと思っています。

*1:ここで産業革命を複製技術の爆発的拡大という意味において、知の構造を大きく再編した要因としてきっちり注目しておく必要があると思う。単純に経済的なイノベーションやそれによる社会の都市化とかで考えるのではなく、それは知の再編過程であったとして捉える必要性があると思っている。当然そういった環境があったからフランス革命などの市民革命のイデオロギーの素地が作られたであろうし、さらに個人的にはフランス革命のような革命こそが衆愚的革命だったのではないか?という疑問を抱いている。この辺はもっと勉強しなきゃいけないと思っています。

*2:ここで人間は機能分化された役割とそのまとまりとしての個という存在様式を手に入れることができ、それがあったからこそ人間はウェブ社会における並列的役割の機能分化に対しても個として対応可能性を持ち得ているのだろうと思っています。