DESIGNTIDE×pingpong、トークセッション@六本木ミッドタウン、が非常におもろかった件について。
10月30日(金)DESIGNTIDE×pingpongっていうイベントのトークセッション行って来ました@六本木ミッドタウン
先に関連情報に関するURLでも提示しておきます。
DESIGNTIDE(デザインタイドのトップページ)
http://www.designtide.jp/09/jp/
DESIGNTIDE×pingpongについて。
http://www.pingpong.ne.jp/
pingpong本部、東京大学知の構造化センター
http://www.cks.u-tokyo.ac.jp/
今日のトークセッションの出演者は
岡瑞起(東京大学知の構造化センター特任研究員,pingpongプロジェクトマネージャー)
濱野智史(日本技芸リサーチャー)
李明喜(デザインチームmatt主宰,pingpongディレクター)他
議論の焦点は、デザインという思考の現代における転回はどういったものか、というようなもの。
より具体的に言うと、「行為」をデザインするにあたって、
①行為(あるいは意図)や情報を構造化する方法 と、
②構造化された行為をいかに具体に結びつけるのか
という、おおまかに二つのフェーズにおいて、デザイナーの立ち位置をどこにどう取るべきかという話。
まず、
①行為を構造化する方法 について。
今回の話の中でメインテーマとして出てきたのは、デザイナーそのものの存在論が転回しつつあるのでは?という話。
具体的には今後、
デザイナーのエゴが出ているデザインではなく、もっと使用者の体験レベルの行為をいかにデザインできるかっていうところが中心になってくるだろうと。
その考えそのものは非常に古びていて、
単純に機能主義の建築などは常に使用者の動線などを想定して作られていたりはしたけれど、
そこには往々にして、デザイナーや制作者の「物語」が挿入されていた。
しかし現実的に、オブジェクトが制作された段階においては、
デザイナーの「物語」は使用者の体験レベルから離れたものになってしまうことが往々にあった。
例えば、掲示板やインフォメーション伝言版のようなものは本来人の立ち止まる場所として設計されたのに、実際の使用者の動線を観測したところそこは通過点になってしまっていたりする。
(pingpong多摩美図書館プロジェクトの例を取りながら、詳細はHPを参照してください。)
その解決策のひとつとして、実際の人々の動線の在り方を情報として蓄積し、その情報をセマンティックな情報構造化技術を利用することで構造化し、
それによって可視化された実際の人々の動線の観測から空間構成そのものを新しく作り変える案が出てくるのではないか?
というような話。
そして、そういった多量の情報の採取と、その情報の様々な軸の取り方による解析データの作成、さらには解析データ間の有意性の測定など、
それらが現在のコンピュータ技術であれば可能になってきているだろうということ。
で、ここでひとつの問題提起。
そこにおいてではデザイナーはどういった立場を取ることが正しいだろうか?
そこへの議論展開。
恐らく、自身のエゴによるデザイン性の追求ではなく、
無限に蓄積されうる生のユーザーの声を解析することによる、ユーザーの使いやすさのデザイン性を追求することではないのか?
自信満々のデザイナーというよりは、消費者ニーズを有意に体現するデザイナーこそが新しいデザイナーなのではないか?
そのためにデザイナーこそ、自身の趣味性に凝り固まるのではなく、新しい技術の可能性に飛びつく必要があるのではないか。
そもそもデザイナー的存在は、新しいものに敏感であったはずなのに、近年のデザイナー一般は物質的デザインの領域から脱却して、ウェブにおける不可視な情報やソーシャルネット的関係性をデザインするという発想、新しいものへの嗅覚が鈍っているのではないか?
というような話が出てきました。
そんな中で、デザイナーの立場である 李明喜氏が、
「現在のデザインの発想の転回は、デザイン1.0からデザイン2.0への進化というよりは、
これまでの前期デザイン時代から後期デザイン時代への転回と言えるだけの大きな転回であるのではないか」
ということをおっしゃっておりました。
次に
②構造化された行為をいかに具体に結びつけるのか という感じの話。
この話の中にも焦点はさらに二つ存在し、
1、まず情報を構造化する方法論そのものを導く方法論について
2、構造化された情報をいかに具体にデザインするかについて。
1、まず情報を構造化する方法論そのものを導く方法論について
ここはうまくは処理できない問題として、人間の力に残されるだろうというのが議論のおおかたの落ち着きどころ。
しかしながら、セマンティックな解析などによって何か一般レベルから可視化することのできる構造化の方法論や軸を見つけられるようにやってみたいというのが展望。
個人的に、ロングテール的な発想と同じく、突飛な発想と当たり前すぎて見落とされる重大な発想などは、
実際には一般レベルから可視化されて見えてくる部分も大きいのではないかと感じたのだが。
そういったものはまさにグーグルやアマゾンがなしえたもののなかで評価すべき功績なのだとは思うわけで。
ページランク的な情報への重みづけみたいなもののアーキテクチャの構築方法によって、よりロングテールに目を向けられる可能性を顕在化できる気はする。
2、構造化された情報をいかに具体にデザインするかについて。
ここにこそやはり、デザイナーの今後の立ち位置が残されている。
だから、総体としてデザイナー不要論ではない。
デザイナーは必要であるが、存在論的に根本からデザイナーは変化を求められる可能性はあるのではないか?
というのが落ち着きどころ。
実際問題として、こういった技術的要件によって情報がたくさん可視化されることによって、
そういった情報から何かを作り出すデザイナーへのニーズは増えるのではないか?
という風に、岡瑞起さんが言っていたのだが、それは非常に的を得ているように思う。
実のところこれは、デザイナーの能力そのものが変容する必要性についての議論がなされただけであって、
全くと言っていいほど、デザイナーへの死刑宣告ではない。
むしろ、デザイナーに既存の方法論ではない新しい方法論が提示され、それがオプションとして増えたということでしかないのではないか?
というのが個人的な所見。
そういった意味では、既存のやり方以外に消費者や利用者にリーチできるための方法が増えたと思い、むしろ楽観的に状況を喜ぶことが重要なように思われた。
ここから先は自分自身の雑記。
まず、政治とデザインの発想の相同性(これはただのたとえ話なので、それ以外の大きな意味も発想も含意していません)。
政治とは、住民 の意図を汲みながら、 社会構造 をデザインする存在。
と、考えれば、政治においても当然デザイナーと同じく
①集合知をいかに構造化して利用するか、
②そのためにどういった軸を構造化の軸として取るか、
③それが可能になるための規模とはどの程度もものなのか
などを現実的要件として考えながら、その可能性試してみる必要性は非常に大切だということ。
第二に、
東浩紀が10月25日、朝生終わった後頃にツイッターで言っていた発言として、
「バカと言われること覚悟で言うと、ぼくが実験してみてほしいなと思っているのは、「政策単位の投票」+「投票利益とSocialGraphからなる投票権のグーグル・ページランク的な重み付け」で成立するシステムです。」
また、これは確か昨日の発言として、
「投票をPageRank的に重み付ける方法のアイデアと、住民の無意識の生活情報から政策を自動生成するアイデア。そのふたつの大枠が固まれば、一般意志2.0は生成することだろう。」
などがある。
「政策の自動生成」が、実ところpingpongが試行しているシミュレーションの目指すところといえる。
「政策単位の投票」に関しては、完全に政治レベルでの制度設計の問題。
「投票のページランク的重みづけ」は、実は一般に対する受けは良くないとは思う。ここに関しては、読み取り方が2種類あるので、なんとも現状で意見を述べることができない。
けれど、投票の重みづけに関しては、非常に重要な議論だと思う。これは恐らく、棄却された政策においてもどういった重みが社会に存在したかを明示化する故、勝利した政策が負かした政策がどれだけの重要性を持っていたかを可視化できるからだ。
割と当たり前な発想だけれど、これは非常に重要で、まさにロングテール的な発想のひとつなのだと思う。
あと、さらに一つ、メモ。
代理ー表象モデルで捉えられていた世界が終焉したというのは、当然ポストモダンの思想以降は自明なわけだ(というより、カントが認識論を転回して以後、近代は常にニヒリズムと表裏一体の状況であり続けている。ドイツ的っちゃドイツ的やが)。ここでポストモダンということばで僕がイメージするのは、構造主義以降として捉えて頂ければよい。
代理ー表象モデルの世界の終焉は捉え方によって想定すべきスパンはそれぞれだが、
でかく考えると、イデアーミメーシスのモデルで捉え、プラトン以後の2500年季として考えられるし、
具体的な消費構造や経済構造のレベル、ひいてはイデオロギーのレベルで考えるならば、
マルクシズムの台頭以後の共産主義対資本主義の対立構造の終焉として考えられるから、250年季とも考えられるし、
近代的人間観のレベルで考えれば、中世後半からルネサンス頃からの1000〜500年季の転換とも考えられる。
で、
代理ー表象モデルが終わり、現在の社会が東浩紀流的なタームで言う「データベースモデル」の社会になっているととらえること自体は納得がいく。
そうやって考えたときに、濱野智志が言っていた、
近代という構造がデータベースとして流動化してきたものから、
再度構造化をするフェーズが現在なのかもしれないとふと思った。
みたいな言葉は当たり前すぎる現状認識やけれど、まさに本質をついている。
さらに言えば、ここで再構造化を論じるにあたっての構造化そのものの方法論は、近代や過去の方法論とは根本的に異なるということが重要になる(だからこそ一夜にしてpingpong的な方法論に非常に魅せられた)。
ということで一番重要なポイントは、
「構造化の方法論をいかに構築しうるのか」という問題。
こここそが、一番急務かつ本質的な問であり続ける。
無限の智をどういった方法で構造化する、たとえば何をパラメータの軸として取るのかという発想そのものは、知識人的な人々や最後に質問をなさっていたpingpongプロジェクト内部の女性のような言語系の方、さらにもっと心理学的な人であるとか、物理学者であるとか、
様々で多様な観点から構造化する方法論は導き出される方が良いきがするし、
もっと一般的な「当たり前やのに忘れてた!」的な構造化の軸を引っ張り出す必要もあるだろうと。
長々としてしまったですが、とりあえずのところ個人的な備忘録としてのブログなので、こんなとこで今日は失礼します。