2010年2月15日森アートコース:東浩紀「民主主義の新しい可能性」についてのレポート(今更)

久しくブログを書いていなかったのですが、これからしばらく書こうと思っています。
数カ月間忙しく動き回り、様々に蓄積してきたはずですが、それを振り返る意味でも文字として書いておくことが重要だと思いました。

というところで、久々のブログのエントリは、
2月15日(月)に森アートコースで開催された東浩紀さんの講演会、
「民主主義の新しい可能性」の時のレポートです。
基本的には講演内容の振り返りとなりますが、ブログですので自身の考えなども織り交ぜることもあります。その点は了承して読んで頂けると嬉しいと思っています。
(すいません、文章がうんこで、ことばを誰が言ってるのかがごっちゃになってます、申し訳ない)


以下ブログ本編:

講演会導入

ルソーとはまず「アンチ文明」の人でした。彼の初の著書の『学問芸術論』で彼は明確にそういった内容のことを書いています。
そしてルソーはある種の分裂症的な方で、「個人としての存在のあり方を追求する」にも関わらず、有名な著書のタイトル通り「社会契約」について論じている。
ルソーは現代的に言えばいわゆる「引きこもり」のような人であり、ルソーの活動時期と重なる頃にフランスで活発だった「サロン」・「百科全書派」などの活動から距離をとっていました。
つまり、ルソーは当時の巨人と呼ばれる他の思想家達からは基本的に仲違いをしている存在だったわけです。

しかし、そんな引きこもりで非社会的な存在であるルソーが、『社会契約論』と名の付く書物を書いたのです。



ルソーの「一般意思」と、「一般意思2.0」


「一般意思」
ルソーの『社会契約論』では、人間の意思について三つの枠組みが提示されています。
「一般意思」・「全体意思」・「特殊意思」の三つ。
まず、特殊意思とは人間個々の意思、欲望のようなものです。
そしてルソーは『社会契約論』の第二編3章において、
「一般意志は間違うことのない意思」であるという旨を論じており、一方「全体意思はプライベートな個人の特殊意思の総和である」というような内容のことを論じています。
そして、「特殊意思の総和である全体意思の相互に相殺しあうプラスとマイナスの部分を消去すると、差異の総和としての一般意志が顕現し、そして差異の総和としての一般意志は数理的に計算できるものである」というようなことを記述しています。
当時の数学では、ベクトルというような概念はありませんでしたが、ここでの差異の総和としての一般意志はベクトルをすべてかけあわせた時に解として出てくる物と言えるのではないかと、東浩紀さんは解釈しようとしています。

そしてまた次が、ルソーの「一般意思」を解釈するうえで非常に重要です。
ルソーは「一般意思」を論じる時に以下のようなことを論じます。
「充分に情報を与えられた市民が熟慮する時に、そしてコミュニケーションを取らない時に一般意志が顕在化してくる」と。
そしてコミュニケーションを充分に取らない事によって、個々人の間に微細な差異が常に残り、その差異が多ければ多いほど一般意志が顕現すると論じているようです。
この部分、「コミュニケーションは意思を調整する作業になってしまうからダメだが、個人には充分な情報が必要である」という部分が、東さんにとって重要なルソー解釈のポイントになっています。

「法」
また『エミール』解釈の中で東さんはルソーにおける「法」とは何かを簡潔に説明してくれてました。
『エミール』の中でルソーは、人間には「モノへの依存」と「人間への依存」があり「人間への依存」はやめるべきものだと論じているようです。平たく言えば、人間や社会の意思によって社会を制御しようという考え方は間違っており、そうではなく「モノ」として存在しうる秩序=「法」によって社会をコントロールする必要があるんだと。
そして繰り返しになりますが、「一般意思」とは特殊意思やその総和ではなく、特殊意思の集合が持つ「差異」によって顕在化するものであり、「差異」とは当然個々人の意思と意思の狭間に存在するものであるが故に人間の意思の外側に存在するものです。それ故「一般意志」は、人間の意思の外側に成立する「モノ」として定位することができます。
このように、「一般意思」とはモノであり、イコール「法」となりうるものなのです。


「政府」
そしてまた、『社会契約論』の第二編においてルソーは、「一般意志が統治・政府を生み出し、政府とは一般意志の代理人でしかない」というような内容のことを論じており、つまりルソーにとって政府の形態は君主制であろうが議会制であろうが「一般意思」を反映するシステムであればなんでも良いようです。
つまり、「一般意思」という主体・主権は政府という機関の外部に存在し、常に現在の統治形態を問い直すものとして存在すると考えます。言い換えると僕たちが「世論」ということばで想定するものはある種「一般意思」であるとも言えるわけです(当然留保付きで、となりますが)。


「一般意思2.0」
このように差異の総和として顕現する「一般意思」は、
「数理的存在(ベクトルとして計算しうるもの)」であり、
「人の秩序ではなくモノの秩序(個々人の特殊意思間の差異として集積されるものであり、個々人の(特殊)意思の外部に存在するもの)」であり、
「政府の外側に存在するもの(政府とは一般意志の代理人であり、政府とは一般意志の代理をしうるものであれば形態は何でも良い)」です。

そして現在のような、ウィキペディアなどによって実現されている集合知が存在し、ツイッターやブログ、購買履歴などの個人情報がライフログとして垂れ流される社会では、まさに数理的に計算された「一般意思」を抽出することができるのではないか、と提案します。
そしてこれが、東浩紀さんの言う「一般意思2.0」という発想です。
現在の社会においては「計量政治学」と呼ばれる学問が成立しているようですが、そこでよく行われるボートマッチシステムなどはまさに「一般意思2.0」のベータ版のようなものだと考えられます。



集合知ライフログ

集合知ライフログ
集合知*1ライフログ*2などの情報の援用、それによって政治の意味は根本的に変化させられるのではないかと、東さんは論じています。
「一般意思2.0」によって可能になる政治。
それは、人々の意見が数理的に計算されることによって、人々の「生」そのものが決定的に反映される「政治」となります。
またそれは、ライフログの情報に基づき、例えば貧乏な人には多めの資源配分などが自動計算的に給付することができるという、効率的な資源配分が可能になる「政治」です。


コミュニケーションとそれ以外の区別
東さんは「一般意思2.0」によって政治を機能させようと考えるときに、「コミュニケーションによってできること」と「コミュニケーションでなくても出来ること」を峻別する必要があると主張されていました。

コミュニケーションでなくても出来ることとはつまり、人々の無意識を資源配分に活かすことです。
例えば、数理的に現在の計算機科学によって計算される「一般意思2.0」やライフログ集合知などのデータの利用によって可能になる資源配分の効率化などです。
コミュニケーションによってできることとはつまり、人々が意識的に政治・経済的活動に参加することであり、例えばネットによって島宇宙化・クラスタ分化していく中で自身の所属するクラスタから別のクラスタへと意識的にホップすることなどが挙げられていました。




個人的な所見
僕は東浩紀さんの信者であるというタイプの学生では特にありません。
しかしそんな中でも東さんのおっしゃるようなある程度の自動化技術をもっと援用した社会システムの再編に対してはすごく肯定的な立場を取っていると思います。
と、ここで自身がなぜ肯定的にそれをとらえているかを説明するのはなかなか難しいんだなということに直面しています@汗

まず第一に、ルソーの「一般意思」によって捉え返される「コミュニケーション」の概念のあり方に思想レベルで共感するという部分がまずあります。
というのも、僕はシステム論者でありラディカルな構成主義的なものの見方をするタイプなので、コミュニケーションというものが個々人の意思の介在によって制御されうるものであるという可能性を否定する立場にあります。例えば、「昨日何食べた?」という発話に対して「トッピロキー(魔法陣グルグル)」と応答されたときに、質問した人にとって意味不明でもそこに存在したやりとり自体はコミュニケーションでないとは誰にも証明などできない訳です。『涼宮ハルヒの憂鬱』の学園祭あたりで出てくる人語を喋る猫も同じようなことを言ってましたが。
そのように考えたときに、ハーバーマスアーレントの言うような「公共性」の要素としての「コミュニケーション」概念と、社会システム理論家のコミュニケーション概念は一線を画していますし、ルソーの「一般意思」とは後者のコミュニケーションに近い。それ故、社会システム理論を認識ベースとして持つ僕には、ルソーを援用して「モノ」としての「法」を主張することは、思想的に親和性が高いと言えます。

第二に、そもそも現在の情報技術によってある程度の可能性が存在するのであれば、それを行わないことになんの意味があるのかが僕にはわからないということがあります。往々にして文明の進歩というものは人間に反発的な感情を産んできています。例えばベンヤミンが『複製技術時代の芸術』を描いて芸術の「アウラ性」への警鐘をならしたときや、さらには近年でもポール・ヴィリリオが『自殺へ向かう社会』などで主張しているものも、文明進歩への嫌悪感のひとつだと言えると思います。
しかし実際のところ、そういった警鐘に耳を貸し倫理的に進歩それ自体を問い返すということは重要であっても、人間社会は間違いなくそれらを乗り越える形で技術を援用していく。であれば、思想や想像力はそこへの嫌悪感を示すだけではなく、それを追い抜く「向こう側」をいちはやく想定することも重要だと考えるべきなのだろうと考えています。
それ故、そこに自然言語処理やセマンティック技術を使って人々の言語情報から自動的に政策課題の抽出をできる方法論が存在し、アマゾンのリコメンドシステムなどと同様に個々人のライフログなどを援用することによって資源配分の方法をもっと効率化・自動化できるのであればそれに可能性を見出さない手はないと考えてます*3
ベーシックインカムなどの議論も、そういった自動化によってある程度余計な官僚労働力などの中抜きができるのであれば、より現実味も増すものだと考えています。



これ以上ひとつのブログのエントリが冗長になったところで誰にも読んで頂けない問題もあると思うので、今日はこのあたりで失礼します。

*1:ここで東さんが集合知の参考図書としてあげたのは以下の図書でした。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「多様な意見」はなぜ正しいのか

「多様な意見」はなぜ正しいのか

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

*2:ここで東さんがライフログの利用について例を挙げたのは、TwitterMicrosoft Photosynthgoogle Page Rankなどです。特にMicroSoft Photosynthは見た目にわかりやすく衝撃的で、ユーザがフリッカーなどにアップした写真を自動的に同期して、ウェブ上に実際空間の写像としての3D空間が再現されています。

*3:ちなみに本ブログの筆者である私自身が昨年よりコミットしている東京大学知の構造化センターのpingpong projectはまさに、そういった情報技術を利用した新しい知の創発・公共空間デザイン設計の方法を実践的に研究しています。→http://www.pingpong.ne.jp/