システム、アフォーダンス、身体拡張性、脳と意識

今日の日記は完全なる雑想日記であることを前もってお断りしておきます。
あと、うっすーい勘違いを含んでいる文脈いっぱいあるので、すいません。だから雑想です。




結局最近のところ自分が気になっていることはいくつかに絞ることができます。


1、身体空間と非身体空間、現実空間と情報空間、のデバイスレベルのインターフェースがどのように変化していくかということ。

2、インターフェースの変化によって、我々人間の意識自体が変化させられることが必至の事実であるということ。

3、現在の情報空間の変化の中において、それらアーキテクチャ構築側とアーキテクチャ環境受容側で完全なる知の二分化が起きていること。

4、知の二分化は、どちらにおいてもある種動物化、ないし「動物」化を引き起こすように思えるが、もしかするとホモサピエンスというレベルでの生物種の進化の分岐する時代が21世紀という時代かもしれないということ。


そんな感じのことです。





1、についてですが、
まず、人間の「意識」というものに対するひとつの仮説としてジュリアン・ジェインズの「二分心」仮説というものがあります。
それはまぁ単純に「文字」使用以前の人間には意識というものがなかったのではないかというようなことを提唱するもので、
「文字」以前の人間には「神の声」が聞こえるみたいな感じのとこがありましたよ、というか「神の声」に従ってたじゃないの?
みたいな話な訳です。


これは割と、オングやマクルーハンのようなメディア論者の議論と接続できるものです。
結局、文字という技術や数字という技術など、空間化され、平面メタファーで語られる抽象記号を使用をするようになったという環境が生まれて初めて、
人間には「抽象」の位相において「仮想」や「表象」空間を想定することのできる「意識」が生まれたというような議論にまとめられる。
逆に言えば、人間には「文字」という環境がなければ抽象的な位相において思考できる「意識」が存在しなかったという話。


つまりは「文字」を利用するという環境に対してアフォードしていった結果、人間には「意識」が生まれるようになってきていて、
記号によって補綴される論理構造を使えるようになったのもそういった「意識」が生まれたから可能になったという話になっていきます。
割とそれは文学史研究みたいな文脈で、記述形式の変遷や、ロマン主義の時代にやっと主人公への擬似同期的な小説がうまれてきたり、
みたいな話は思いっきりなされていて、自分的にはリアリティーまんまんな訳です。


結局人間は、自然環境であれ人工環境であれ身体拡張性であれ、そこにある環境に対して動的に、アフォーダンス的に適応することに依って進化してきていると要約することができる訳です。




2、についてですが、
しかしながら現在の情報環境において、僕たちが情報や知識を平面メタファーで蓄積し続けるという保証はもはや全くなくなりつつあります。

『智場#107』のIECPレポートでテッドネルソン氏が主張しているように、そして具体的には試行中の「Floating World」のようなソフトウェアとそれを利用する際のデバイスレベルでの操縦桿のようなインターフェースが示されているように、
電子空間がそういった現実空間と同様の3次元性のものとして認識されるものとなり、かつ、3次元性のままでインタラクションを行う対象となったとき、
僕たちが平面メタファーの中で培ってきた既存の「意識」構造がそのまま保存されるなんてことは考えられない訳です。


その時のテッドネルソン氏が紹介しているデモ以上に、
ARが今後現実空間に対して当たり前の存在としてせり出すようになり、
操縦桿レベルのデバイスではなく、人間の運動をモーションキャプチャ的に情報化するようなメタ言語とインターフェースが創出されるようなことがうまれれば、

完全にシームレスに我々の身体性や運動が情報空間と同期することになり、そこには情報空間と現実空間の位相の差異すらなくなるような事態が実現してしまう。


空想レベルの話ですが、そういったことが実現するための技術的要件は試行レベルでは出揃ってきていると思われます。


そんな中で、恐らく我々は、オング流に言う「第二の声の文化」を本当の意味で体現するかもしれず、
ウェブによってそれが実現されることを強調すると、「声の文化2.0」が出来上がるとでも言い換えることができるでしょうと。
そこには、「意識」を忘却した人間たちが住まう新しい時代がくる。
つまり動物化というよりは「動物」化の時代が来る(動物を強調してるんですねー、よしよし。ムツゴロウさん風)



しかしながら、
3、のフェーズにおいて指摘する2極化というヤツは、
そういった新しい環境=アーキテクチャを作っている側の人、と、環境=アーキテクチャを受容する側の人、で、
完全な知的二極分化を起こしているよねという、よくいわれるような当たり前の話を想定しています。

簡単に言えば、アルゴリズマー対ググラーみたいな対比です。ネットオタク対身体性回帰派、みたいにも言い換えられるかも。



けど、再度しかしながら、、、と論をひっくり返しますが、
4、そこにおける二極化って、別に知的な人と「動物」化する人が別れていっているというよりは、
どっちも違うベクトルで「動物」化していってんじゃないの?という風に、直感的には思ってしまっているわけです。


まぁ、これは完全な想像ですし、誰かが既にSF小説とかで書いちゃってるような気がする話ですけど。







だからたまーに思うことが少しあるとすると、

パターン生成によって動的に情報空間と現実空間が動的アフォーダンスを行い続けるような方法を構築することにやっぱり興味があって、
身体と非身体性が動的に生成しあう動的オペレーションそれ自体を構想しようみたいなことがやっぱり一番興味があるんだけれど、

パターンを生成するという認識構造、意識構造それ自体が下手するとインターフェースの移り変わりに依ってはなくなってしまう気もしていて。



そしてさっき言った二つの「動物」化ベクトルは、もしかすると数万年規模の目線で見れば、
ホモ・サピエンス・サピエンスという生物種としての人類が、進化の岐路に立っているのが現在かもというような想像を惹起する訳で、

そういう想像のカスケードの中でどれが自分の現実的に取るべき時代への関与の方法なのかということが非常に難しいなぁと、悩んで立ち止まることがあるわけです。




あ、あと付記するならばこれは特に悲観的にそういったことを想像しているのではなくて、
割と不可避的にそうなっていくだろうし、それはある種時間的に生成される人間と言う種の普通の出来事な気がしていて、
そこに特に価値判断を差し挟むつもりもない訳です。

想像しうるひとつの可能的未来。





勝手な想像をブログにぶちまけるという完全なる恥ずかしさなのです。

というか誰かがtumblerでこれに近い仮想SF作品を公開してくださっていたような気がする。。

なんにしてもユーザインタフェースが一番今本質的な問題ではあると思う。
ただ、そこに関しては状況を見守ろうかというような立場を取りつつあるし、取る気がする。

ARには興味はあるんですけども。