知識基盤社会での二極分化 はいかなる性質か?

昨日の日記の「文明とは何かということへの覚書」の最後の部分において、


新しいキーワードは「時間性」になっていき、具体的には「遊び(公文氏流に言えば智業)」と一次産業(農業とか)へ向かう気がする。



というように僕の考えを書いたのですが、これはまだ非常に不確定な予測でしかない。

けれど、なんとなくはそうなっていくというような気がしています。



「遊び」と「一次産業」、そして両者に共通する特性としての「時間性」というキーワード。


単純に知識化された社会を生きるようになればなるほど、われわれの労働はわれわれの身体から外在化されるようになっていく。
それゆえ、われわれには身体性を埋め合わせる何かが必要になる。

そして身体性を埋めることができるものは「時間性」というキーワードになるのではないか、と考える。



身体性を外在化してきたが故に、僕たちの身体自体は空洞化し、むしろ外部にもっとより明確な身体性を持つものを欲求するようになってきた。

それゆえ、人間は身体性を素直に求めるようになり、まるで動物であるかのようになってきている*1
単純にスポーツや性交渉のようなものは身体性を持ち、空洞化した身体性を埋めるし、余った時間を経験的連続性で埋めてくれる。
人間は、原始化してきている、と言える。




ここで人間にとっての「時間性」とはなにか?という問いが当然立てられなければならなくなる訳で、そこからが一番難しい。

僕は現状では、ルーマンの意味システム論における意味の三次元の内の「時間次元」というところとの接続から、人間の「時間性」を記述することができるのではないかというように考えています。


単純にルーマンの意味の「時間次元」というものは、意味には継続的連続性がそもそも存在していて、その連続性が断絶するときには意味は根本的なレベルから転回しうるということを指摘しているものです。
例えば、今僕が友人とカレーの話をしていたとき、その友人と共有される継続的時間性の内において、カレーはカレーであるという基底的意味の連続性を保ちながら、野菜カレーとかチキンカレーとかについて話をすることができる。その中でカレーという意味には継続性が担保され続けている。
しかし、僕が今度は3歳の甥っ子とカレーの話をしようとすると、甥っ子との会話ではカレーの色から「うんちみたい」ふうに話題が転回する可能性があり、そこには僕と友人にあった時間の連続性が断絶され、僕と甥っ子という新しい時間次元へと進んだため、カレーということばの持つ意味が抜本的に転回される。

というところが、意味の「時間次元」の示しているものだと今は理解しています(間違ってるんかなぁ)。


で、言ってしまうと「時間性」とは基本的にそういった意味の連続性のことであり、時間の連続性のひとつの単位となるようなものだというように思うのです。



たとえば友人と一日一緒に過ごすと、それはその一日は友人と過ごした一日という時間的連続性をもった単位になる。

ひとりでテレビを見ていれば、ひとつの番組を見ていた連続性が時間的連続性の単位になるかもしれないし、CMの度に時間的連続性の単位が途切れている可能性もある。

この際、単純にひとりの環境ほど、時間の連続性が断片化しやすい環境はないでしょう。それゆえ、個人化と呼ばれている現象は、人間の経験的時間の連続性を無限に断片化しやすくする性質を持っていると思う。




で、ここで今言っている「時間性」の中で僕は「経験的」ということばもよく使ったのですが、これも「時間性」を論じるにあたって非常に重要なことばだと思う。
「時間性」と言って表現したい時間は、近代における機械化された時間ではなく、経験的に継続性を感受し、インパクトの大小によって個人に恣意的に記憶されるような「時間」のことなわけです。

例えば強い印象のある短い経験も、記憶においてはすごい「時間性」「経験性」をもったものとして残る。記憶も非常にキーワードになるが、そこまで深入りすると煩雑になるからここでは元の議論に戻ります。



とまぁ、「時間性」をそのようなものとして捉える訳です。
で、知識基盤社会へ向かえば向かうほど、物理的に時間制約を受けることがなくなり、さらに個人化という状況で「時間性」はさらに断片化しているが故に、そこで生まれる「時間性」の空洞化を埋め合わせる何かが人間には必要になる。


「時間性」を安易に埋めることができるのが身体性であり、そういう意味で、性産業、スポーツ、農業など、直接的身体性をもった行動へ回帰したい人間は増える。

一方、知識社会化するが故に、豊富になった仮想的他者との共時間性への志向をするグループも出てくる。


身体性へ回帰するグループは非常に動物化していくし、もしかすると肉食系男子なんてものの要素もあるのかもしれない。

仮想的身体性へ向かうグループはまた違う動物化へ向かうし、それはある種草食系な要素なのかもしれない。



なんにせよ、原始的な身体性に回帰するグループと、新しい仮想的な身体性へ向かうグループに別れていくだろうと感じる。



その実、もうひとつのグループとして、仮想的な身体性を仮構するアーキテクチャを制御しているメタ知識的人間も存在しているだろうし。Google的な立場というか。
さらにそういったオープンソース上でうまく立ち振る舞いながら、バランスをとれる人材も出てくるだろうし。




そうなると、2つに分化する人間の存在の中で、どのようにガバナンスを取ることができるようになるのか。。。




うーん、まとめきれない。
とりあえず、メモとして記述しました。自分のおつむが足りない。今の社会を知るための知識が足りない。
知恵はある気がするんやけど、、、とそこだけは自己弁護しつつ。

*1:実は読んでないので、東さん関連は読んでおかねば。。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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