文明とは何かということへの覚書。

今自分はとある文芸誌への評論コンクールへの評論文を書いています。それも締切まであと1ヵ月というところまで迫ってきています。
あぶないなー@笑

とまぁ、その評論では僕は文明発展をマクルーハン的観点から大局的な視点で省み、今起こっている情報環境におけるアーキテクチャの構築のメタ記述性の新しさを浮き彫りにしようと試みているわけです。うまく、わかりやすく記述しきれるかは今は非常にあやういのですけれど@笑



今日は『智場#107』の冒頭の、公文俊平氏と梅田望夫氏の対談、その司会は鈴木健氏というまぁすごい顔ぶれの対談の記事を読み、またなおかつ『智場109』の冒頭のこれまた公文俊平氏への鈴木健氏などによるインタビューの記事も読み、そこで文明そのものを議論する部分があった。

智場 #107 Web2.0はどこへいくのか

智場 #107 Web2.0はどこへいくのか

智場 #109 情報社会研究のフロンティア

智場 #109 情報社会研究のフロンティア


それを踏まえながら、自身の文明観、みたいなものを新しく振り返らざるを得なくなったので、そこで考えたことをメモらなきゃという気持ちに今なっているわけです。




公文俊平氏の、近代を10世紀頃から始まった1000年期の転換であると捉え、10世紀頃を近代の出現期、15世紀頃を近代の円熟期、20世紀後半を近代の突破期(ラストモダンの時期)だとする考え方を、単純に支持することは僕は今のところはない。
ただ確かにそういった見方もできるということは理解ができる。
恐らくそういった見方はおもしろいし、僕が考えているような文字以降の歴史をひとつの論理の中で大きすぎる大局的な観点から捉える考え方よりは現実的な観点な気もする。

けれどやはり僕としては、現代の情報環境の変革は、文字を使用し始めた段階での人間の環境変化と対比する形で捉えるべき現象ではないかと思っているわけです。


ではそれはなぜか?
それは、人間が「仮想世界」を作り出した初めての行為が、文字を使用し始めるという行為だったと考えているから、です。
そして、現代の情報環境のアーキテクチャ、それは往々にしてオープンソースだとかクラウドだとかいうことばで語られているものですが、今話題となる仮想世界というキーワードは、われわれが既に所有している「仮想世界」をさらにメタに記述する「メタ仮想世界」であると考えているからです。

つまり、文字の使用というものが「一次的仮想世界」をわれわれにもたらし、現在の情報の仮想世界は既有の現実や「一次的仮想世界」のさらにもうひとつ抽象化された位相に「二次的仮想世界」を構築している。それゆえ、新しい仮想のフェーズをわれわれにもたらすという行為において、「一次的仮想」と「二次的仮想」を構築するそれぞれの技術はまずそこで一番シンプルに対比することができ、そこをベースラインとして据え置こうという考え方は間違いではないと思っているのです。



単純に「一次的仮想」を構築することを可能にする文字などの抽象記号がわれわれにもたらしたものは、
本来は存在すらしなかったシニフィアン(=抽象記号)を無から創り出し、シニフィアンはそれに対応する何かを指示するものであると設定し、表象空間という仮想世界を作り出す技術であったわけです。
たとえば数学を考えれば、1や2などというシニフィアンが根源的に何を指し示しているかなどわれわれには理解はできてもわからないですし、そこでシニフィアン間の関係を表象する+や−や×や÷というシニフィアンが根源的に何を指示しているかもわれわれには理解はできてもまったくわからないものなわけです。
そして僕たちは本来根源的に虚無なるものを表象するシニフィアンと、それらの関係を表すシニフィアンを連結させることで、シニフィアンそのものの連関だけは無限に高次化して構築することができるようになった。
その無限に高次化しうるシニフィアンの連関構造を僕たちは「形式論理」と呼称しますし、オーセンティックな哲学が常に論理学として探究していたものはこういったものへの哲学であったわけです(たぶん)。

ここで無限に高次化していくシニフィアンの例としては、言語、数学、貨幣、金融、法律、総じてそれらを包含する社会システムなどあらゆるものが挙げられ、これらすべてがこういったシニフィアン連関構造であり、「形式論理」的存在なわけです。


法律で定められているから何かをしないでおこう、みたいなものは倫理と呼ぶのか道徳と呼ぶのか、それらは生活習慣化してしまっている部分もある故「形式論理」として措定してよいのかはわからないのですが、
しかし、そういった「形式論理」の構造はそれが自明化さえしてしまえば、われわれにとっては自然と同様に環境化してしまうものなわけです。
文字を読めることを今の僕たちが苦しいことだ、不自然なことだと普段は感じないことからそれは納得して頂けるものだと思います(文章を書く仕事をしている方はいつも文字に苦しんでいるでしょうけれど)。

こういった話をきっちりと内在化すれば、人工物と自然物みたいな境界線を設定することの無意味性も浮き彫りになると思います。



なんにしても、マクルーハンやオングの指摘を真に受け過ぎているバカだと思われようとも、僕自身直観として何かこういった考え方をリアルなものとして受け止めてしまっている*1
何かを設計したり、計画したり、デザインするという発想が明確に意識の俎上に昇るようになったのも、僕はこういった「形式論理」を内在化できた人々からだと思いますし、そうなるとジュリアン・ジェインズの言うような文字以前の人間には意識すらなかったのでは?というような仮説にも共感を抱いてしまう*2
クリストファー・アレクザンダーという建築家の言う「都市はツリーではない」という有名なことばがありますが、それ以前に、ツリーを計画し構想できるということ自体が文字的思考の賜物だと言えると思うのです(もちろん都市はツリーではないと僕も思います)*3




で、ここでそろそろ「二次的仮想」の話へと進まないといけない。
先にも述べたように、「二次的仮想」は現状ではウェブ上での「一次的仮想」、つまりは文字や音声や映像などをメタに記述する「場」となっていると言えると思います。
学習院大学法学部教授の遠藤薫のことばを借りれば、「一次的仮想」はエクリチュールであり、「二次的仮想」はエクリ×エクリとでも言えるものなわけです*4
そして今後のAR技術やMR技術はエクリ×エクリによって「一次的仮想」のみならず、現実をもデザインする技術としての可能性を持っている。


「二次的仮想」技術によって社会の構造が変動すること自体を肯定的に評価するか否定的に評価するかということは実のところなにひとつ重要な問題ではないということはもはやわかりきった事実なわけです。
「二次的仮想」技術もわれわれにとって自明なものとして受容するようになってしまえば、それは人工物ではなくもはやわれわれにとっては環境になってしまう。だから新技術を評価するということに関しては僕はまったく興味を持たない。

しかし「二次的仮想」技術において非常に新しいことは、それが「一次的仮想」と同時に現実そのものをデザインしなおす可能性を持っているということですし、
それによって、これまで人間にとって現実とはひとつに収斂させることができるものだったのに、現実までもが二層空間化してしまうかもしれないというその未知の可能性がそこに存在しているということなわけです。



「二次的仮想」によってわれわれの世界は、認識が存在に帰属すると考えられ続けていたのに、存在と認識が同じくらいの重さをもった現実として並列的に存在しつつあるようになってきている。


それゆえ、現代はやはり僕にとって、文字を使用し始めた時点での2500年ほど前の時代と類推すべき時代であるという風に思ってしまっている。




まぁ、しかし、僕のこの考え方だけが一意的に正しいとは思っていません。
当然、認識と存在の同時並存世界が生まれたとしても、そこに秩序をもたらそうとするための素材となる発想は既存の「一次的仮想」の発想の中に転がっているわけで、重要なのは新しいものを恐れずに冷静に見つめることなのだとは思っています。


あと、ひとつだけ危険性を論じるのであれば、
「二次的仮想」のプラットフォームというか、「二次的仮想」の場というか、オープンソースの場というか、それらを構築する能力というのは非常に限られた人々に寡占的に握られているということです。
特にいえば、数学者の中にいる希有なる天才によって握られている。
数年前まではこういった情報アーキテクチャにおけるある種の帝国性はマイクロソフトという企業を対象に論じられていましたし、今ではそれらはGoogleという企業に対して論じられるものになっている。

今後は、マイクロソフトやGoogleに加え、もしかするとIBMが巻き返すというようなことも大いにあり得ますし(IBMの南アフリカへのSRI的投資はその可能性を強く感じさせる)、
日本においても「はてな」などはやはり可能性を強く感じる力を持っている(ぷちナショナリズムでしょうか?笑)。


恐らく「二次的仮想」における寡占的権力は、いくつかの超大企業による覇権のゆるやかな協働の上での奪い合いという状況になっていくのではないか、という考えを今の僕は持っています。
ここでの「ゆるやかな協働の上での」という部分も非常に今後の近未来を洞察する上ではキーワードになる気もしています。
ある種日本的、「繋がりの社会性(北田暁大)」。


このあたりはぼくの勝手な直観によっている部分が大きい。




なんにせよ、今日のところはここまでにしようかと思います。

「一次的仮想」が孕む確率の本質化というリスクを、もし「二次的仮想」がうまく補完することができるのであれば、未来は現実的には明るい。

労働なき資本主義が現実化しつつある知識基盤社会が現実化すればするほど、人間には虚無という悪魔が襲いかかっていくように思う。
そこで新しいキーワードは「時間性」になっていき、具体的には「遊び(公文氏流に言えば智業)」と一次産業(農業とか)へ向かう気がする。

RMTなどというようなキーワードも実は20年くらいすれば、そんな言葉の存在すら忘れられるくらい当り前の事象として僕たちの世界になじんでいるのではないか?そんな気がしている。

それらに関しては今後考察を深めつつ、記述したいと思います。

*1:

メディアの法則

メディアの法則

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

*2:僕はジェインズ自身の著作は未読です。すいません。大航海69号で西垣通などによって紹介されていたところからここを記述しました。

大航海 2009年 01月号 [雑誌]

大航海 2009年 01月号 [雑誌]

*3:『思想地図vol.3』の初めのシンポジウムでこれらは濱野智史磯崎新によって主題化されています。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

*4:『電子メディア文化の深層』所収の4つ目の論文など。