三項図式とシステム理論。自己の思考の枠組みの覚書2。

いきなり稚拙な絵を提示することになったのですが、システム理論のシステムが分出する様子を観察者から見たときの図式は単純にこれで把握できると思います。本当はすごいもっと様々に要素が連関しているんですけども@笑
詳しくはルーマンの『社会システム理論』*1を読んで頂くのが手っ取り早いですが、その前にシステム理論そのものの概略を把握するためには河本英夫オートポイエーシス*2なんかを読んでからでないと、うまく理解できないと思います。
僕は河本『オートポイエーシス』読了後、ルーマン『社会システム理論』へと移り、流れとして理解しやすかったなと思います。
あとは、現象学のエッセンスがわかっていないと『社会システム理論』は理解しづらいでしょうが、その参考としては西條剛央『構造構成主義とは何か』*3あたりでエッセンスだけなら理解しやすいと思います。

補足するならば、マトゥラナ・ヴァレラ*4などは現状では僕は読んでいません。それゆえきっちりと学を積まれている方には様々なご指摘を受ける必要性があるでしょうが、僕自身がシステム理論やルーマン理論のエッセンスを取り逃がしているとは思いません。
その部分に関しては自信があるので、揺さぶって頂けると嬉しいかなとも思います。


少しまた、話が脱線しました。


しかしまぁ、思いっっきり!!、単純化をするのであれば上のような図式としてシステム理論は記述することができるでしょう。


もしかすると舌足らずになるかもしれないですが、システム理論を理解する上でのエッセンスは、

①システム自己の視点 と 観察者の視点 の明確な区別
②システム自己の視点から見たとき、そこにはシステムにとっての内も外もない
③システムは自己の動的なオペレーションによって自己組織化しながら、環境との境界を形成し、分出している(ように観察者には見える)。

に集約することができると思います。



まず、①を前提としながら②を議論したいと思います。

システム自体の目線に僕たちの視点を同期してみます。
その時、システム自己の目線を取る僕たちに世界はどのように見えるでしょうか。
結論から言うと、システム自己である僕たちが設定した恣意的な形式として世界を認識していると言えます。
この恣意的な形式というところに、構造主義における構造が入るでしょうし、パラダイム論におけるパラダイムも入るでしょう。ルーマンも、このシステムの在り方を「構造」と呼んでいます。付記するならば、ノード・リンクのネットワークのネットワーク全体を「構造」ということもできるでしょう。
そして「構造」という概念により、システム自己が設定した恣意的な形式において世界を認識することが世界の無限の可能性を「縮減」するというルーマンのキーワードにも結びつきます。
くどいですがもう一度言いかえると、システムにとっては未知である環境をシステムが持つ認識の形式、システム流のコーディングを経てシステムは自己を組織し、自己をシステムたらしめています。


もう少し踏み込んで例証してみます。
システム理論そのものが科学的なエビデンスを持って発展してきたものであるのですが、ここではシステム理論そのものを例証する例としてふさわしくない僕たちの認識に関するたとえ話で、「システムにとっての内も外もない」ということを例証したいと思います。


例えば、僕(=システム)にとっての「現実」とはなにか?という問いを想定します(例として非常に悪い)。
様々な答えの幅が考えられます。想像されるものすべてが「現実」だとするならば、夢や幻や妄想もすべて僕にとっては「現実」ということになります。
一方、実際に眼前に触れられる範囲の出来事が「現実」であると考えることもできるでしょう。
いや、世界で事実として起こったものが「現実」だと考えることもできるでしょう、そうすればニュースで見る地球の裏側の出来事も「現実」と呼称されうる。


しかし、実はシステムにとっての「現実」を論じるにあたっての「現実」とは上記のような現実の質の問題ではないわけです。
実は、僕というシステムにとって「現実」というカテゴリーで認識される可能性のあるすべてのものが潜在的には「現実」足りうるわけであり、僕というシステムが「現実」であると措定するものはすべてシステムにとっては現実たりえるのです。


ここで重要なのは、システムにとっての「現実」はシステムが「現実」として認識する可能性のあるものすべてであるということです。そして、システムが「現実」として認識する可能性がないものは、システムにとっては存在すらしないものなのです。
つまり、システムにとって認識されていない「現実」などは存在しないが故に、システムが「現実」とするものには外部が存在しないと言える。そして、システムにとっては認識するすべてが「現実」であるが、認識外が存在すらしない故に、システムはすべてを認識していると思っている。それゆえ、システムにとっては外部や内部という区別すら存在していない、と言えるわけです。
それゆえ、システムには内部も外部も存在しない。言うならば、システムは常に「井の中の蛙」なわけです。


もしシステムが環境という未知のものを認識した瞬間、それはシステムにとって認識された「現実」になるのですが、システムはどういった形式としてであれ、自己のシステム自体の構造を変化させてでも、環境から得られた情報を既知のものの体系に取り込んで処理します。
そしてそれが、システムがシステムたる所以でもあります。
言いかえると、「井の中の蛙」であるシステムが井の外の新しい情報を認識した瞬間、井そのものを作り変え、新しい「井の中の蛙」へと変貌するのです。
システムが動的に自己組織し続けるものであるというのは、まさにこの変貌する動的オペレーションを指したものです。


なんにせよ、システムの視点を取ったとき、システムにとって内部も外部も存在しない。システムが認識するものはすべて、システムが「現実」として認識しているものであるわけです。システムが認識した時点でそれは環境ではなくシステムが認識した環境に置き換えられている訳です。



これが②の視点です。ここまではとりあえずシステム論そのものが持つひとつの重要な要素の説明です。

これがじゃあどう、三項図式と結びつくのかというところは③の観察者からの観点において明らかになってきます。
が、今日のところはここまでにします。
しかし、今日の文は煩雑になってしまいました。

言いたいことやシステムそのものの作動は実のところ非常に単純な発想だとは思うのですが、それを一般化して論じようとするとかくも難しいものなのかと痛感しています。

もっとうまくわかりやすく表現できないとと反省しています。

*1:

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

*2:

オートポイエーシス―第三世代システム

オートポイエーシス―第三世代システム

*3:

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

*4:

オートポイエーシス―生命システムとはなにか

オートポイエーシス―生命システムとはなにか