三項図式 と システム理論。 自己の思考の枠組みの覚書。
備忘録的にブログを書く、という行為の有意性についてふと考えました。これはただの前置きですが。
というのもやはり、仮想的にも読者を想定することによって記述をいかにすればわかりやすいかということをきっちりと意識することができる。それが大きい。
普段論文構想していても、まとまりのない図や箇条書きで満足することが多いので、それでは不完全性が非常に強い。それゆえ、読まれることを想定し、きっちりと文章化する、その2点は非常に有意義だなと思いました。
で、今回は電脳うんぬんの話をちょっと隣にどけて、自身の思考の枠組みを簡単に覚書的に記述しようと思いました。
基本的に自身の思考は
?三項図式
?システム理論(オートポイエーシス理論)
に集約されています。
?三項図式 に関してですが、僕の場合はマクルーハンの影響から三項図式の着想を得ていると言えます。
そもそも大学3年生のころから、二元論的発想を考える以前に二元論を認識する主体である解釈者を含めた三元目を自明視しその存在を排除しているのは問題ではないのか、ということは考えていたので、
その三元論的観点を明確に具現化する上でマクルーハンの影響を受けた、という感じです。
後期マクルーハンはゲシュタルト心理学の影響を受けながら、「地」と「図」と「間」という三項を常に意識しながら議論を展開していました*1。
そして有名なテーゼである「メディアはメッセージ」は、「間」であるメディアそのものを実体視することの重要性を指摘し、「メディアはマッサージ」ということばは、「メディアはメッセージ」というテーゼの持つ技術決定論的要素を相対化しているものとして捉えられます。それゆえ、マクルーハンを技術決定論として批判することの妥当性は全くないといえます*2。
そして、その三項図式の発想は今後、水島久光*3などの議論を参考にしながら、パースの記号論における三項図式やラカンの三界などともすり合わせていく必要があると考えています。
で、話を進めたいのですが、
三項図式という発想そのものは様々な議論と今のところ整合性を持っている発想だと言えます。
すべてこれらはマクルーハンからの受け売りという側面も強い気がしますが、
例えば量子論において、量子の確率的存在(=地)が観察者による観測(=間)の作用によって粒子として顕在化する(=図として分出する)という図式として捉える事ができ、三項図式の適用を受容するものだと言えるでしょう。
さらに、マクルーハンはキュビズムの絵画が、ひとつのキューブ(=地であると同時に見方によっては図ともなる)が集まり、その全体を鑑賞者が絵として見ること(=間)によって、全体性としての絵(=図)が浮き出るというようなことにも言及していて、非常に議論の幅が広い。しかも妥当だと言えるでしょう。
三項図式の妥当性をさらに敷衍するためにマクルーハンを離れると、ネットワーク科学においてノード(=地)とリンク(=図)に加え、ひとつひとつのリンクが生成されるメゾの領域(=間)への着目する必要性が言われていますが、それもまた三項図式という観点の重要性を担保するものと言えるでしょう*4。
そして最後に、三項図式とはシステム理論*5にとっても必然性をもって支持されるべき図式であると言えるわけです。
というのも、システム理論の重要なポイントとして、システム自己にとってシステム内外の区別など存在しないが、観察者から見たときはシステムが環境から境界を持って分出している(ように見える)という特徴があります。
そして、システム自己の目線を疑似的にわれわれが仮構するときは世界はシステムにとって全体性をもった一元的なものになるのですが、われわれが観察者としてシステムを見るとき、システム(=図)は観察者の視線(=間)の作用によって環境(=地)から分出していると言え、まさに三項図式が当てはまると言えるわけです。
それゆえ、システム自己と観察者という視点の取り方の区別を理解した上で、観察者による視点から見たときにシステムが実体化するという部分は、まさに三項図式の構図として理解できるわけです。
そして、ここで三項図式からシステム理論へと自身の理論的構想が接続されていくわけなのですが、割とこれで長くなってきましたし、また、とりあえず書くのも一段落な気分になってきたので、後半はまた後日という感じで飛ぶことにします。
あ、あと忘れずに指摘しておきたいことは、三項図式をこそ全体性をもった普遍理論として推奨しているのではなく、ただ単にこの図式を取ることが一般性をもった普遍理論として妥当性を有しているが故、自身は足場としてその視座を取ろうと思っています、というだけのことです。
単純にネットワーク科学においてノードとリンクという二つの指標を取ることは非常に有効ですし、それはそれで素晴らしい有効性を持つ。しかしながら、その限界性を理解した上で、それを補う視点として三項図式を明確に意識してみようとする、単にその相互補完的な立場に立つための暫定的な自身の立ち位置としての三項図式の提示でしかない。
これは自身が学的にいかに中立的にいられるかという非常に重要な部分なのであえて付記しておきます。
*1:
*2:それについては見城武秀2003に詳しい。『情報秩序の構築』7つ目の論文。
*3:[rakuten:book:11273533:detail]
*4:これは伊庭崇と増田直紀の対談においても触れられています。
*5:
『電脳コイル』①
『電脳コイル』をまとめて観たので、それについての覚書をいくつか書いておこうと思います。
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『電脳コイル』の世界が今後の新しい技術開発への発奮材料になっているという話を『智場#112』*1のIECPレポート2と3において見かけ、そこから紐付けられて『電脳コイル』を観たわけです。
ちなみに『電脳コイル』というアニメーションは2007年NHK教育テレビで放送されていたアニメーションです。
そこに描かれている世界は、電脳メガネというUI(User Interface)が当たり前に出回り、電脳メガネを掛けた子どもたちが電脳世界と現実世界の多重世界を自明なものとして生きているような世界です。
また予め、ここで言う電脳世界とは、いわゆるセカンドライフなどが示した仮想現実であるVR(Virtual Reality)を言うのではなく、添加現実<AR(Augumented Reality)>や<MR(Mixed Reality)>というような、電脳的存在を現実空間にあたかも(添加)現実化したものである、ということは提示しておくべきなのだと思います。
『電脳コイル』の世界そのものの説明はここでは割愛し、作品を見て頂くことを推奨しながら、あくまで『電脳コイル』の世界において提示されている事実から考えられることを備忘録的に。
まず第一。
電脳メガネを掛けている子どもたちは、同一の電脳空間を認識している。
それゆえ、『電脳コイル』における電脳空間はその管理会社であるメガマスが一元管理している電脳空間である。
少なくとも電脳空間はウェブ上で一元管理された空間である。
(その実古い電脳空間として一元管理から漏れた電脳空間も存在しているけれど)。
次に第二。
『電脳コイル』の世界の仮想的現実は現実世界の空間と対応するように構成されている。
というのも、子どもたちが電脳メガネで見ている仮想世界は現実空間と重なりあう形で構成されているからである。
つまり、電脳空間そのものの設計が現実空間の忠実な模写として作られている必要性がある。
おそらくそのように写実的に電脳空間を構築するにあたっては、それらを完全に一からプログラミングするということは考えづらい。となると、ユビキタス構想のように現実空間にRFIDタグが埋め込まれた状況から、それに対応するよう電脳空間が構築されたもとして想定されるのではないか、と考えられる。
そして、現実空間への忠実な対応という形で、電脳空間は更新される必要があり、そのためにサッチーあたりが頑張ってる。
でも更新されきってはいない残余として古い空間が存在し、古い空間にはメガマス以前の電脳ビジネス参与会社であるコイルズ社の空間があり、そのあたりとイリーガルが関係してくる。
まぁもしくは単純にGoogle MapとかGoogle street的なものをAR化したら良いという話なのかもしれない。
少なくとも、現実の肉体と電脳の肉体にズレが生じるという描写が存在している故、電脳空間が電脳的存在のみを投射し、他の存在をすべて現実空間に依拠しているとは考えづらいだろう。
第三。
イマーゴと呼ばれる現象。
少なくともイマーゴを使える子どもは、電脳世界と直結した意識構造を持っていると言える。
ある種『攻殻機動隊』における電脳化された人たちのように。
量子脳的仮説*2によって脳の意識が解明されるのであれば、そういったイマーゴ的なものも、その実技術的に可能性はゼロではないだろう。
注意すべきは、量子的ファンクションが完全解明されたとして、量子的ファンクションで人間の意識が全て理解できるかどうかはわからないという事実だろうが。
というか、すでにいくつか脳波によって直接コントロールするゲームはあるわけで、そんな大それたものでなくとも可能なのかもしれないが。
第四。
電脳メガネをかけている人とそうでない人では、世界認識そのものが一致しない世界が開かれているということ。
具体的には、電脳ペットであるデンスケは、電脳メガネをかけている子どもたちには見えているけど、メガネをかけていない大人とかには見えない。
しかしながら、自動車のナビゲーションや様々なインフラ的機械などのは電脳的に、情報空間の制御に依拠する部分が増えているため、
たとえば作中ではカンナという少女の事故死の原因が、事故車のカーナビの電脳上・情報アーキテクチャ上にあるのか、カンナという少女自身にあるのかということが非常に難しくなっている。
そのことについては『智場#112』のレポートにおいても考察されている。
そういった、人類史上初、各人の認識と実際の存在が一致しないという世界になった時、そこにおいて生まれるであろう問題は非常に難しい問題だと思う。一部の法律家などは、そういった世界における立法の可能性などを既に議論しているようだが、まだあまり現実的な課題として人々には受け入れられないだろう。
なんにせよ、アーキテクチャを語るにあたって、アーキテクチャそのものがもはや既存のウェブやVRとしてのみ語られなくなった時、人類史上のあらゆる観念を転換するような発想を持ったアーキテクチャの設計を考えないといけないというのは、大袈裟にも見えるが言い過ぎではないように思う。
実際問題、法や文字によって補綴される秩序も、ある種添加現実的なものだったと言えるけれど、少なくとも今言われるAR技術の実現によって、既存の価値観のみに依拠する形では世界に対応できなくなることは間違いない。
疑問点。
メガマスという企業と、郵政局や文部局などの関係性がなかなかわからない。
サッチーは郵政局として電脳空間を取り締まっているけれど、それはメガマスという企業とどういった関係を取り持ったものか。
まぁ、アニメやので、細かいことは考えるのは不必要だろうが。
アニメのシナリオとして重要な「電脳コイル」と呼ばれる現象そのものや、イリーガルそのものをどういった性質として措定するかはそれほど重要ではないと思われるので、割愛しようと思います。
それはそれで、作品批評みたいな意味で面白いとは思いますが、今回はとりあえずふと思いつくいくつかの具体的、技術的要点のみ備忘録的に記述するのを目的とした感じで。
*1:
*2:量子や脳に関しては、R.ペンローズの提唱、また、最近では大航海69号に詳しいだろう。 ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて (ちくま学芸文庫)
とりあえず初日記ということで。
とりあえず初日記ということで、このブログをどういった位置づけで書こうかなぁということを意志表明的に書いてみようかと思います。
予言の自己成就的な意志表明とでも言いますか。
「自身のブログ何カ条」、みたいなものになるのかしら。
①何より非常に内省的というか、内向的というような内容になってしまいそうな気がするけれど、それはよしとしよう。
②上とあんま変わらない気もするけど、備忘録的なメモと思考整理みたいな位置づけで、よしとしよう。
③博士進学をしないだろうということになったから、ある種オープンな自身の言論・表現の場のひとつとして取り扱おう、よし。
④何かを読んだり観(見)たり聞いたりしたことから敷衍される思考について書こう。明確に何かの題材と紐付けされた思考を書こう。よし。
⑤更新は気が向いたタイミングで気が向くままにやろう。よし。
そういったところでしょうか。5カ条?
5カ条とかって呼ぶほど、条項的な感じにはなってないですね。
とりあえずは、最近の思考は近未来的電脳空間論、アーキテクチャ論みたいなものが主眼になるかなぁと思っています。
ちなみに昨日と今日で『電脳コイル』という2年ほど前のNHKでやっていたアニメをまとめでDVD9巻分を処理しました。
一昨日は『サマーウォーズ』を観ました。
ついでに今日『時を駆ける少女』*1を観ました@笑
で、押井守の『攻殻機動隊』*2やら『イノセンス』やら、平野啓一郎の『ドーン』*3やらとも絡めつつ、
GLOCOMの出している『智場』*4や『思想地図』*5シリーズなどとも絡めつつ、
電脳空間へ向けた思索と現状分析などをしばらく気が向けば更新してみようかと思います。
今日のところは挨拶まででした。
*1:
*2: GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 [DVD]
*3:
*4:
*5: NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ