「孤」と「個」、「分人」と「個人」、自走する自己とコミュニケーション

「孤」と「個」というキーワードについては、『攻殻機動隊 Stand alone Complex*1(『攻機』のテレビアニメ版)の初回のオープニングで以下のように表示される。


 あらゆるネットが眼根を巡らせ
 光や電子となった意思を
 ある一方向に向かわせたとしても
 “孤人”が
 複合体としての“個”になる程には
 情報化されていない時代・・・





「分人」と「個人」というキーワードについては、平野啓一郎『ドーン』*2において提示されている。

「分人=dividual」と「個人=individual」。





仮想空間が現実に存在するようになって生まれたものは、
(機能)分化した“孤人”(分人)が同時並列的に存在するようになるという事実。
つまり仮想的自己の“孤人”(分人)が、自走的自己*3として並列的に存在し、
「個人」は並列的「分人」を同時並列に処理する必要に迫られる。




「分人」的発想は、ジンメルが「大都市と精神生活」を著したような時代から当たり前にある発想で、
「個人」は様々に機能分化した「分人」を、時間軸において使い分けるという生活を当たり前のようにしてきている。
だから、特に新しい発想ではない。

今の社会での新しさは、同時並列的な「分人」を内包するという事実。

そして、同時並列的な「分人」の存在も、デジタルネイティブたちにとっては、自明の環境でしかない。







デジタルネイティブのような存在が一般化してくるのが2010年代というこの10年期。

そこでその流れを先読みしてキャッチアップする方法は?


①「分人」を常に手元で監視できるという意味でのモバイル環境の充実。(具体的にはモバイル系デバイスの発達と、そこでの通信インフラの拡充、さらに電波で処理できるだけの軽快さを有するコンテンツの拡充)

②「分人」と「個人」が仮想的に同期できるような、仮想空間の構築。(新しいセカンドライフ、ミクシーアプリのような擬似同期的ゲーム、ソーシャルネットワーク

③時間性を有するアクティビティへのコミットメント。(育成系のゲーム(ミクシの牧場ゲームみたいなの)、友人との同期性、時間的体験を伴うアクティビティ)




このへんまでも常識的なレベルで共有されている事実なので、大して面白みもないですね。しかも非常に抽象的。





あとは、ARとかの添加現実における、存在と認識の多重空間における立法や規制、帰責先などを考えるにあたって、
法律が先回りできるのか、教育が先回りできるのか、企業などの現実的設計が先回りできるのか。





個という多数なるものを社会という一者が包摂する時代から、
孤という多数なるものを、個という一者が包摂しながら社会という次元で連帯する時代への流れ。

連帯におけるガバナンスは、オープンな仮想空間で自走するのか、
連帯におけるガバナンスは、企業、市民団体、残存する国家主権などとも連携するのか。





一般化したデジタルネイティブ達が社会を設計する立場になる(40代〜50代になる)頃=2030〜2040年頃には、
既存の国家や民族などのような枠組みにおける、「枠組み」という概念そのものがどういう風に変容しうるんだろうかということを考えると、
あまり変わらないような気もするし、コペルニクス的に転回している気もする。







吉田民人は「認識科学」と「設計科学」という風に学問をふたつの枠組みに分節していたが、
僕は間違いなく「認識科学」にとっぷり足を踏み込んでしまっている。
だからこそ認識できることはたくさんあるように思うが、そこから「設計科学」に没入するような発想をどれだけ有意に導き出せるのかは、体験してみないとわからないな、と、率直に五里霧中な感じです。

*1:[rakuten:s-premium:10008588:detail]

*2:

ドーン (100周年書き下ろし)

ドーン (100周年書き下ろし)

*3:以下の書で荻上氏は、ウェブにおけるコミュニケーション空間を自走するコミュニケーション空間と呼称しています。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

知識基盤社会とはなにか?文明史的観点からの個人的素描。

10月になり、ゼミも始まり、あと就職活動をすることにしたので、割にリッチに思考する時間をあまり持てないので、早速ブログが滞り始めています。

とまぁ、そんなくだらないことを考えながら、自分が卒業論文の時点でどういった思索を持っていたかを確認するため、半年ぶりに読み返してみたりしました。原点回帰的な意味も込めて。



まず、僕が当時持っていた感覚を思い出す。


僕の卒業論文が具体的に何をテーマとしていたかというと、

社会構造を静的なものとして捉えたとき、社会構造の変動そのものを当為的にデザインするという動的作動こそが教育という作動ではないのか?という捉え方をしてみたい。

というものでした。


その後、院入学の4月までの間にルーマンの社会システム理論に出会い、その理論をある程度援用することで上のような自身のテーマを定式化することができるな、考え始め、
現在は、人類の進化をシステム論的にとらえたとき、人類システムの進化において教育という作動がいかに構造構築的オペレーションを行ってきているかを理論次元で一般化してみよう、
ということを修士論文の大きな枠組みとして措定するに至っています。




このように人類システムの進化という大局的な目線を持ったとき、人類史そのものを納得のいくいくつかに段階分けをする必要を感じ、
マクルーハン的メディア論をベースにしながら、プラトンあたりを指標にする「第一次仮想」が存在するようになった文字以後の段階、20世紀中葉以降(もしくは量子論が生まれた頃からともいえる)の不確実性ベースの時代でありエクリ×エクリが出てきて「第二次仮想」が当たり前になってきた段階、という文明進化の段階を仮構しようと考えるようになっています。*1
要は、文字以前と文字以後、さらに情報化以前以後というメルクマールを挿入して、三段階に文明をとりあえず区分しているんです。




「仮想」というキーワードでもって文明を語ろうとすると、必然的に僕は「脳」機能の外在化過程として文明を見ているということになります。
というよりは、記号の領域を見ていると言った方が正しいのかもしれないです。
たとえば、文字という「第一次仮想」は僕たちの思考を視覚的に抽象し外在化しているし、「第二次仮想」を構築するデジタル信号は文字のようなエクリチュールを記述して構築する僕たちの脳神経的ファンクションを外在化している*2


一方で、既存の古代や中世や近代や現代という区分は、「第一次仮想」的脳の時代におけるわれわれのモノの領域に着眼した考え方だと縮減して考えられるように思うのです。
西欧的な意味での古代から中世、近世、近代という流れは、皇帝とそれ以外、聖職者とそれ以外、封建領主とそれ以外、官僚とそれ以外、啓蒙された市民と他国の奴隷、という形で「第一次仮想」の技術である文字使用の拡大過程であると言うことができると思うのですが、
この流れにおけるわれわれの文明の進化過程は、そういった記号処理をできるかどうかの前提である物質的・モノ次元での条件に制約される要素が大きかった。

それゆえ、既存の古代〜現代という枠組みは、脳の進化史的に見れば「第一次仮想」と呼べる一時代に括られ得るにもかかわらず、「第一次仮想」にリーチするための物質的・モノ次元での条件に厳然たる格差が存在したため、様々な権力格差が経済格差と結びつきながら存在していた時代であり、モノ次元での考え方が重要だった時代と言うことができるのではないか?
つまりはマルクシズム的な考え方が基底的に通用していた時代だともいえるのかもしれない(このあたりは憶測です)。
(当然今も残存するそれらの経済=権力格差の記憶に取りつかれ、世界はパワーという構築物にすがる「第一次仮想」が見せる幻想から目覚めていないが)。




しかし、現代における「第二次仮想」の時代への移行期においては、第二次仮想によって何を表象するのかこそが基底的指標となる時代であるし、つまりは「知識」と呼ばれるものと、その「知識」を構築するセンスである「知恵」がベースとなる時代だと言えると思うのです。

流行のことばに乗っかるならば、「知識基盤社会」とは、「第二次仮想」の時代である。と言い換えることが当然できる。

もしわれわれが本当に、情報化社会を語ろうとし、イノベーションを語り、21世紀を語るのであれば、僕はやはり「第一次仮想」から「第二次仮想」への転換という2500年期をひとつの大きなベースとして見る必要があると思う。




だから、価値の基準そのもの、つまりは経済指標と呼ばれるものが当然根幹から転換すべきだと思うし、
前回の日記で触れた、鈴木健のPICSY*3や、スティグリッツサルコジに提出した新しい経済指標*4への試みは非常に注目すべきなんだと思う。

キーワードはやはり、「知識」をベースにした遊びと、地球的な目線での「環境リスク」(=第一次産業)の二つかなぁと。
それに付随し、当然現在の社会インフラをより「環境リスク」とすり合わせるための産業的イノベーションも超重要なわけで(結局、「知識社会」は産業インフラに依存するわけで)。



「知識」と「環境リスク」をベースにした、新しい経済指標を構築すること、
そして、既存の利害を乗り越えてそれらを適用できる世界的連携をマネージメントすること。




最後の問題が、一番難しいから、結局外交やらなんやらはうまくいかんのよね。
僕が考えてるようなことをあたりまえにわかっている人たちがずっと行動し続けて、世界は今もこの状態なわけで。



という意味で、政治的な意味でもオープンソーシャル的な「場」やアーキテクチャをいかにデザインするかは、その環境規制力という中立的権力の持つ力の大きさとして、すごく大切だなぁと。
当然それらを構築するメタ知識人達のリテラシーが重要。そういう意味ではデジタル世代はある程度中立性において信頼はできるし、信頼できる寡占的独裁者の競合関係もうまく生まれつつあるように思う。


なんにせよいかにこういったメタ知識人的リテラシーに自覚を持って、いかにそれをビジネスライクに実現することのできる人間に成長できるか。
ソーシャルアントレプレナーシップみたいなものと、ビジネスをマッチングさせながら変化の波に乗り、個人としても今の激動の時間を乗りこなす。
今後20年の文化担体は企業と市民団体になると思っているから、自身の身の振り方は非常に重要だし、それしだいで僕は野垂れ死にもすればひとりの大きな人間にもなれる。



だから、就職先は吟味しなければならないなぁと、考えています。(結局現実的にはそこかよ、っていう)。





うわー、また、まとまらんくなってまーた!!!!

*1:「第一次仮想」と「第二次仮想」というタームに関しては、9月27日の私自身のブログにて解説しています。→http://d.hatena.ne.jp/knife0125/20090927/1254059515

*2:コンピュータサイエンス認知科学がコンピュータを人間の思考を外在化するツールとして構想していたという彼らの意図を無視しても、実際にコンピュータ的ファンクションは脳との対比で語りうるように僕は思う。確かにまだまだ不完全ではあるけれど。

*3:http://www.picsy.org/

*4:http://newsweekjapan.jp/stories/business/2009/09/post-569.php

9月29日のGLOCOM、『デジタルコンテンツ白書2009』読書会について。

昨日、GLOCOMで行われた『デジタルコンテンツ白書2009』読書会に行ってきました。

濱野智史氏を生で見る事が出来、また、遅れていらっしゃった専修大学の福冨忠和氏も生で見れ、非常に嬉しかったというのがまずは感想です。

『智場』シリーズではいつも名前を見る井上明人氏も司会役ということでお顔を見ることができ、非常にテンションが上がりました。

砂田薫さんなども会場にいらっしゃったのかなぁと、いろいろと考えを巡らせつつ。



濱野さんに名刺を渡し、ひとことだけ挨拶させて頂くことはでき、嬉しかったです。
濱野さんがブログを見てくださるかもしれないという、微かな希望もありつつ。
見られたらむしろ、こいつアホと思われるだけの可能性もありつつ。。。@汗




と、なんにせよ、昨日の話のなかでいろいろと考えたことをまた備忘録的に。



まず、雑談的な要素として、電子ブックのデバイスがあれば欲しいよねみたいな雑談が福富さんからありましたが、
欲しいですよねー@笑
ASUSから年内にこれまたウルトラローコストな電子書籍端末が出るようなので、僕としても非常に楽しみにしていて、出たら買いそうだなと思っています@笑 http://wiredvision.jp/news/200909/2009090920.html




デジタルハリウッド大学のの学長補佐の高橋光輝氏の話には色々と考えさせられたのも大きかった。地味に実際僕は教育学専攻所属なので、いろいろと考えざるを得なかった。全然教育のこと研究してないけど、イノベーションや知識基盤社会化の向こうの教育を構想するのであれば、まず近未来の社会構造をある程度可視化しないと身動きすら取れない、というのが僕の考え方で。
だから僕は教育学専攻なのに、まったく自分独自のことばかり追っかけているわけですけども。

僕がやっぱり思ったことは、企業が求める人材へのタイムスパンと、実際の教育や政策が見据える人材育成へのタイムスパンが、ミスマッチを起こしてしまっているということでした。
誰かの質問の時にそう思っていたんですが、やっぱ不況期の企業の志向性と、不況期だからの国際戦略や本当の意味での人材育成を考えようとする官学的な視点が、うまく同期するのは難しいんだろうなと。


企業や国や高等教育機関などがうまく協調する路線で、どういった形であれ人材育成への有意なファンドを創出して、うまくゆるやかに連携を取って行ければよいんだろうけど、まず視点そのものを同期するだけで不可能性に包囲されちゃうんだなと思い。

どこが悪いではなくて、たぶん一番アホなのは旧態然としている「学」な気がする。正直、学に可能性を感じなくなってきた自分としては、「学」の人間の無駄なプライドとか伝統指向みたいなものが一番無意味な障壁なんやろうなとか思ったり。


具体的なことをよくわからない自分には、表層的なことしか考えることしかできないのが情けないですね。






で、やっぱここから面白いとこで、濱野さんのお話のところに行きます。

濱野さんのお話はニコニコ動画という日本特有の動画コンテンツサイトのお話で、そこで起こる初音ミクなどに代表されるコンテンツのN次創作の連鎖とそれに関する擬似同期的盛り上がりについての説明、
そしてその中でN次創作が、今後ビジネスへと繋がる可能性があるかどうかへの予想、というような話でした。

そういった話の中で、N次創作のネタ共有地・プラットフォームである「ニコニ・コモンズ」の話があり、
そこで出てきた「コモンズツリー」を見ながら、まさにあれはN次創作のコンテンツ進化の系統樹だな、ということを考えていました。

「コモンズツリー」は、元となるコンテンツからユーザーの自主性によって「あなたのコンテンツを元に新しいものを作りましたよ」と申告し、元となったコンテンツからどのように新しいコンテンツが派生していったかをビジュアルに捕捉できるサービスらしいです。

ゆえに、それは元のコンテンツから、様々にコンテンツが増殖していく様子が系統樹のように見えるようになっています。


もし、「コモンズツリー」的な系統発生への自己申告を実験的に義務化し、コンテンツ進化の系統樹を完全に捕捉し続けることができるように操作できれば、
日本のニコニコ動画において特有なように見えるコンテンツの中で、どういったものが流行し、どういったものが淘汰されて消え、どういった人間が作り出したコンテンツが適応価が高いのか、ということを、
まさに進化論的に観察することが理論的には可能だろうな、などと夢想していました。



現実的には技術的制約などがあって難しいんでしょうが、進化論的に日本の、特にニコニコや2ちゃんねる特有のウェブ文化を確実な数値化を持って観察はできるだろうな、という気がしていました。


けれど、それが国際比較に使える指標とかになるかどうかもよくわからないので、そういった調査をしたところで無意味かもしれない気もしました。

しかし、オープンソーシャル的な環境でコンテンツが作成され続ける環境で、どういった人が適応価の高いコンテンツ開発を担う人材となりやすいのか、という意味でのひとつの指標としては有効なのかもしれないなとは思いました。





で、さらにここで先程の教育という話にも接続できるな、という風にも思いました。

もし仮に、ここで適応価の高いコンテンツを作る人物の特性として一般化可能な条件等を見出すことができるのであれば、

最近流行の数量的エビデンスを携えて、新しいコンテンツ技術を持った人材育成への条件整備などを話し合うことはできるのではないかなという風に思いました。




それだけではなく、実際問題ウェブ上のオープンな環境での個々人の主体性によるコミットメントでいくらでも技術向上をできるプラットフォームは整備されつつあるのだから、

そういったものをうまく教育機関が取り込むにはどうすればよいのかということで、カリキュラム等をもっとうまく作り変えることはできんじゃないのかと、思いました。


なんにせよ、僕の身の回りで教職を取って教員になっていく人間の中にそういった明確なビジョンや役割意識をもっているような人間はいないですし(みんな良い奴なんですけど@笑)、

教職を取るためのカリキュラムなど、もっとあたりまえに変えていかなければならないことがあり過ぎるなと、強く思いました。





なんにせよ、ニコニコ的コンテンツから日本のストーリー性の強いコンテンツがいくつも生み出されうるならば、
それを海外コンテンツの技術などとうまくすり合わせることで、
第二の『攻殻機動隊』のようなヒットを作ることは不可能ではないように思ったり。







あと、初音ミク現象はいつまで続きうるんでしょうか。
恐らくアイドル現象と同じく入れ替わりがうまれてくるでしょうし、
そういった新しい世代の初音ミク的アイドルを誰かが作り出すんだと思うのですが、
そこでの変化のサイクルやスパンも今後短くなっていくことが予想されると思います。
さらに言えば、いくつかのライバル的なアイドルの乱立なども起こるだろうなと。
あ、もう起こってるんかしら。



けど、ニコニコ動画だけでなく、ミクシーアプリに自作アプリを提供する個人など、
そういった人を中心に、今後日本でもMMORPGや、仮想世界への積極的参入を果たす人口は増えていくんだろうなと思いました。






あとは、やっぱり、若い人を中心に考えたときにモバイル市場が重要になってくる。
GoogleAndroidが日本でどれだけの勢いでシェアを取ることができるかは今はまだわからないですが、
間違いなく世界スタンダードのひとつとなっていくでしょうし、
日本のある種特異なモバイル市場がいつまで持ちこたえられるのかは非常に疑問が多い。

個人的にはドコモから出てるアンドロイド携帯を買いたかったのですが、逆にそれはiモードに対応していなかったりして不便だなぁと思ったり。
結局僕もiモード使えた方が現状では完全に便利なわけで。

あとは、電子書籍とか難しいですよね。
既存の携帯の通信のまま電子書籍対応しても、今後既存の携帯通信の市場規模自体は減っていくんじゃないかと思ったりするし。





あ、あと、ニコニコ的ビジネスへの成長可能性は、RMT的な方向へ進んでいく、日本ではやっぱりポイント制だというのはそう思いました。
難しいですけど、経済指標そのものが根本的に変化していかなくてはならないとは思います。
例えば株式会社サルガッソーの鈴木健さんが提示しているPICSY*1なんかはひとつのシミュレーションとしておもしろそうだなと思っていますし(よく理解できてないんですけど、ページは読みました)、
あとは、フランスのサルコジスティグリッツに依頼して作成させた新しい経済指標がどういったものなのかなども、注目に値する気がする。





一気にまとまりがないぐちゃぐちゃの日記になってしまった。。。

だめだ。。明日から後期の大学が始まります。

*1:価値が伝播する貨幣の研究と題されています。 http://sargasso.jp/asobi.html

知識基盤社会での二極分化 はいかなる性質か?

昨日の日記の「文明とは何かということへの覚書」の最後の部分において、


新しいキーワードは「時間性」になっていき、具体的には「遊び(公文氏流に言えば智業)」と一次産業(農業とか)へ向かう気がする。



というように僕の考えを書いたのですが、これはまだ非常に不確定な予測でしかない。

けれど、なんとなくはそうなっていくというような気がしています。



「遊び」と「一次産業」、そして両者に共通する特性としての「時間性」というキーワード。


単純に知識化された社会を生きるようになればなるほど、われわれの労働はわれわれの身体から外在化されるようになっていく。
それゆえ、われわれには身体性を埋め合わせる何かが必要になる。

そして身体性を埋めることができるものは「時間性」というキーワードになるのではないか、と考える。



身体性を外在化してきたが故に、僕たちの身体自体は空洞化し、むしろ外部にもっとより明確な身体性を持つものを欲求するようになってきた。

それゆえ、人間は身体性を素直に求めるようになり、まるで動物であるかのようになってきている*1
単純にスポーツや性交渉のようなものは身体性を持ち、空洞化した身体性を埋めるし、余った時間を経験的連続性で埋めてくれる。
人間は、原始化してきている、と言える。




ここで人間にとっての「時間性」とはなにか?という問いが当然立てられなければならなくなる訳で、そこからが一番難しい。

僕は現状では、ルーマンの意味システム論における意味の三次元の内の「時間次元」というところとの接続から、人間の「時間性」を記述することができるのではないかというように考えています。


単純にルーマンの意味の「時間次元」というものは、意味には継続的連続性がそもそも存在していて、その連続性が断絶するときには意味は根本的なレベルから転回しうるということを指摘しているものです。
例えば、今僕が友人とカレーの話をしていたとき、その友人と共有される継続的時間性の内において、カレーはカレーであるという基底的意味の連続性を保ちながら、野菜カレーとかチキンカレーとかについて話をすることができる。その中でカレーという意味には継続性が担保され続けている。
しかし、僕が今度は3歳の甥っ子とカレーの話をしようとすると、甥っ子との会話ではカレーの色から「うんちみたい」ふうに話題が転回する可能性があり、そこには僕と友人にあった時間の連続性が断絶され、僕と甥っ子という新しい時間次元へと進んだため、カレーということばの持つ意味が抜本的に転回される。

というところが、意味の「時間次元」の示しているものだと今は理解しています(間違ってるんかなぁ)。


で、言ってしまうと「時間性」とは基本的にそういった意味の連続性のことであり、時間の連続性のひとつの単位となるようなものだというように思うのです。



たとえば友人と一日一緒に過ごすと、それはその一日は友人と過ごした一日という時間的連続性をもった単位になる。

ひとりでテレビを見ていれば、ひとつの番組を見ていた連続性が時間的連続性の単位になるかもしれないし、CMの度に時間的連続性の単位が途切れている可能性もある。

この際、単純にひとりの環境ほど、時間の連続性が断片化しやすい環境はないでしょう。それゆえ、個人化と呼ばれている現象は、人間の経験的時間の連続性を無限に断片化しやすくする性質を持っていると思う。




で、ここで今言っている「時間性」の中で僕は「経験的」ということばもよく使ったのですが、これも「時間性」を論じるにあたって非常に重要なことばだと思う。
「時間性」と言って表現したい時間は、近代における機械化された時間ではなく、経験的に継続性を感受し、インパクトの大小によって個人に恣意的に記憶されるような「時間」のことなわけです。

例えば強い印象のある短い経験も、記憶においてはすごい「時間性」「経験性」をもったものとして残る。記憶も非常にキーワードになるが、そこまで深入りすると煩雑になるからここでは元の議論に戻ります。



とまぁ、「時間性」をそのようなものとして捉える訳です。
で、知識基盤社会へ向かえば向かうほど、物理的に時間制約を受けることがなくなり、さらに個人化という状況で「時間性」はさらに断片化しているが故に、そこで生まれる「時間性」の空洞化を埋め合わせる何かが人間には必要になる。


「時間性」を安易に埋めることができるのが身体性であり、そういう意味で、性産業、スポーツ、農業など、直接的身体性をもった行動へ回帰したい人間は増える。

一方、知識社会化するが故に、豊富になった仮想的他者との共時間性への志向をするグループも出てくる。


身体性へ回帰するグループは非常に動物化していくし、もしかすると肉食系男子なんてものの要素もあるのかもしれない。

仮想的身体性へ向かうグループはまた違う動物化へ向かうし、それはある種草食系な要素なのかもしれない。



なんにせよ、原始的な身体性に回帰するグループと、新しい仮想的な身体性へ向かうグループに別れていくだろうと感じる。



その実、もうひとつのグループとして、仮想的な身体性を仮構するアーキテクチャを制御しているメタ知識的人間も存在しているだろうし。Google的な立場というか。
さらにそういったオープンソース上でうまく立ち振る舞いながら、バランスをとれる人材も出てくるだろうし。




そうなると、2つに分化する人間の存在の中で、どのようにガバナンスを取ることができるようになるのか。。。




うーん、まとめきれない。
とりあえず、メモとして記述しました。自分のおつむが足りない。今の社会を知るための知識が足りない。
知恵はある気がするんやけど、、、とそこだけは自己弁護しつつ。

*1:実は読んでないので、東さん関連は読んでおかねば。。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

文明とは何かということへの覚書。

今自分はとある文芸誌への評論コンクールへの評論文を書いています。それも締切まであと1ヵ月というところまで迫ってきています。
あぶないなー@笑

とまぁ、その評論では僕は文明発展をマクルーハン的観点から大局的な視点で省み、今起こっている情報環境におけるアーキテクチャの構築のメタ記述性の新しさを浮き彫りにしようと試みているわけです。うまく、わかりやすく記述しきれるかは今は非常にあやういのですけれど@笑



今日は『智場#107』の冒頭の、公文俊平氏と梅田望夫氏の対談、その司会は鈴木健氏というまぁすごい顔ぶれの対談の記事を読み、またなおかつ『智場109』の冒頭のこれまた公文俊平氏への鈴木健氏などによるインタビューの記事も読み、そこで文明そのものを議論する部分があった。

智場 #107 Web2.0はどこへいくのか

智場 #107 Web2.0はどこへいくのか

智場 #109 情報社会研究のフロンティア

智場 #109 情報社会研究のフロンティア


それを踏まえながら、自身の文明観、みたいなものを新しく振り返らざるを得なくなったので、そこで考えたことをメモらなきゃという気持ちに今なっているわけです。




公文俊平氏の、近代を10世紀頃から始まった1000年期の転換であると捉え、10世紀頃を近代の出現期、15世紀頃を近代の円熟期、20世紀後半を近代の突破期(ラストモダンの時期)だとする考え方を、単純に支持することは僕は今のところはない。
ただ確かにそういった見方もできるということは理解ができる。
恐らくそういった見方はおもしろいし、僕が考えているような文字以降の歴史をひとつの論理の中で大きすぎる大局的な観点から捉える考え方よりは現実的な観点な気もする。

けれどやはり僕としては、現代の情報環境の変革は、文字を使用し始めた段階での人間の環境変化と対比する形で捉えるべき現象ではないかと思っているわけです。


ではそれはなぜか?
それは、人間が「仮想世界」を作り出した初めての行為が、文字を使用し始めるという行為だったと考えているから、です。
そして、現代の情報環境のアーキテクチャ、それは往々にしてオープンソースだとかクラウドだとかいうことばで語られているものですが、今話題となる仮想世界というキーワードは、われわれが既に所有している「仮想世界」をさらにメタに記述する「メタ仮想世界」であると考えているからです。

つまり、文字の使用というものが「一次的仮想世界」をわれわれにもたらし、現在の情報の仮想世界は既有の現実や「一次的仮想世界」のさらにもうひとつ抽象化された位相に「二次的仮想世界」を構築している。それゆえ、新しい仮想のフェーズをわれわれにもたらすという行為において、「一次的仮想」と「二次的仮想」を構築するそれぞれの技術はまずそこで一番シンプルに対比することができ、そこをベースラインとして据え置こうという考え方は間違いではないと思っているのです。



単純に「一次的仮想」を構築することを可能にする文字などの抽象記号がわれわれにもたらしたものは、
本来は存在すらしなかったシニフィアン(=抽象記号)を無から創り出し、シニフィアンはそれに対応する何かを指示するものであると設定し、表象空間という仮想世界を作り出す技術であったわけです。
たとえば数学を考えれば、1や2などというシニフィアンが根源的に何を指し示しているかなどわれわれには理解はできてもわからないですし、そこでシニフィアン間の関係を表象する+や−や×や÷というシニフィアンが根源的に何を指示しているかもわれわれには理解はできてもまったくわからないものなわけです。
そして僕たちは本来根源的に虚無なるものを表象するシニフィアンと、それらの関係を表すシニフィアンを連結させることで、シニフィアンそのものの連関だけは無限に高次化して構築することができるようになった。
その無限に高次化しうるシニフィアンの連関構造を僕たちは「形式論理」と呼称しますし、オーセンティックな哲学が常に論理学として探究していたものはこういったものへの哲学であったわけです(たぶん)。

ここで無限に高次化していくシニフィアンの例としては、言語、数学、貨幣、金融、法律、総じてそれらを包含する社会システムなどあらゆるものが挙げられ、これらすべてがこういったシニフィアン連関構造であり、「形式論理」的存在なわけです。


法律で定められているから何かをしないでおこう、みたいなものは倫理と呼ぶのか道徳と呼ぶのか、それらは生活習慣化してしまっている部分もある故「形式論理」として措定してよいのかはわからないのですが、
しかし、そういった「形式論理」の構造はそれが自明化さえしてしまえば、われわれにとっては自然と同様に環境化してしまうものなわけです。
文字を読めることを今の僕たちが苦しいことだ、不自然なことだと普段は感じないことからそれは納得して頂けるものだと思います(文章を書く仕事をしている方はいつも文字に苦しんでいるでしょうけれど)。

こういった話をきっちりと内在化すれば、人工物と自然物みたいな境界線を設定することの無意味性も浮き彫りになると思います。



なんにしても、マクルーハンやオングの指摘を真に受け過ぎているバカだと思われようとも、僕自身直観として何かこういった考え方をリアルなものとして受け止めてしまっている*1
何かを設計したり、計画したり、デザインするという発想が明確に意識の俎上に昇るようになったのも、僕はこういった「形式論理」を内在化できた人々からだと思いますし、そうなるとジュリアン・ジェインズの言うような文字以前の人間には意識すらなかったのでは?というような仮説にも共感を抱いてしまう*2
クリストファー・アレクザンダーという建築家の言う「都市はツリーではない」という有名なことばがありますが、それ以前に、ツリーを計画し構想できるということ自体が文字的思考の賜物だと言えると思うのです(もちろん都市はツリーではないと僕も思います)*3




で、ここでそろそろ「二次的仮想」の話へと進まないといけない。
先にも述べたように、「二次的仮想」は現状ではウェブ上での「一次的仮想」、つまりは文字や音声や映像などをメタに記述する「場」となっていると言えると思います。
学習院大学法学部教授の遠藤薫のことばを借りれば、「一次的仮想」はエクリチュールであり、「二次的仮想」はエクリ×エクリとでも言えるものなわけです*4
そして今後のAR技術やMR技術はエクリ×エクリによって「一次的仮想」のみならず、現実をもデザインする技術としての可能性を持っている。


「二次的仮想」技術によって社会の構造が変動すること自体を肯定的に評価するか否定的に評価するかということは実のところなにひとつ重要な問題ではないということはもはやわかりきった事実なわけです。
「二次的仮想」技術もわれわれにとって自明なものとして受容するようになってしまえば、それは人工物ではなくもはやわれわれにとっては環境になってしまう。だから新技術を評価するということに関しては僕はまったく興味を持たない。

しかし「二次的仮想」技術において非常に新しいことは、それが「一次的仮想」と同時に現実そのものをデザインしなおす可能性を持っているということですし、
それによって、これまで人間にとって現実とはひとつに収斂させることができるものだったのに、現実までもが二層空間化してしまうかもしれないというその未知の可能性がそこに存在しているということなわけです。



「二次的仮想」によってわれわれの世界は、認識が存在に帰属すると考えられ続けていたのに、存在と認識が同じくらいの重さをもった現実として並列的に存在しつつあるようになってきている。


それゆえ、現代はやはり僕にとって、文字を使用し始めた時点での2500年ほど前の時代と類推すべき時代であるという風に思ってしまっている。




まぁ、しかし、僕のこの考え方だけが一意的に正しいとは思っていません。
当然、認識と存在の同時並存世界が生まれたとしても、そこに秩序をもたらそうとするための素材となる発想は既存の「一次的仮想」の発想の中に転がっているわけで、重要なのは新しいものを恐れずに冷静に見つめることなのだとは思っています。


あと、ひとつだけ危険性を論じるのであれば、
「二次的仮想」のプラットフォームというか、「二次的仮想」の場というか、オープンソースの場というか、それらを構築する能力というのは非常に限られた人々に寡占的に握られているということです。
特にいえば、数学者の中にいる希有なる天才によって握られている。
数年前まではこういった情報アーキテクチャにおけるある種の帝国性はマイクロソフトという企業を対象に論じられていましたし、今ではそれらはGoogleという企業に対して論じられるものになっている。

今後は、マイクロソフトやGoogleに加え、もしかするとIBMが巻き返すというようなことも大いにあり得ますし(IBMの南アフリカへのSRI的投資はその可能性を強く感じさせる)、
日本においても「はてな」などはやはり可能性を強く感じる力を持っている(ぷちナショナリズムでしょうか?笑)。


恐らく「二次的仮想」における寡占的権力は、いくつかの超大企業による覇権のゆるやかな協働の上での奪い合いという状況になっていくのではないか、という考えを今の僕は持っています。
ここでの「ゆるやかな協働の上での」という部分も非常に今後の近未来を洞察する上ではキーワードになる気もしています。
ある種日本的、「繋がりの社会性(北田暁大)」。


このあたりはぼくの勝手な直観によっている部分が大きい。




なんにせよ、今日のところはここまでにしようかと思います。

「一次的仮想」が孕む確率の本質化というリスクを、もし「二次的仮想」がうまく補完することができるのであれば、未来は現実的には明るい。

労働なき資本主義が現実化しつつある知識基盤社会が現実化すればするほど、人間には虚無という悪魔が襲いかかっていくように思う。
そこで新しいキーワードは「時間性」になっていき、具体的には「遊び(公文氏流に言えば智業)」と一次産業(農業とか)へ向かう気がする。

RMTなどというようなキーワードも実は20年くらいすれば、そんな言葉の存在すら忘れられるくらい当り前の事象として僕たちの世界になじんでいるのではないか?そんな気がしている。

それらに関しては今後考察を深めつつ、記述したいと思います。

*1:

メディアの法則

メディアの法則

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

*2:僕はジェインズ自身の著作は未読です。すいません。大航海69号で西垣通などによって紹介されていたところからここを記述しました。

大航海 2009年 01月号 [雑誌]

大航海 2009年 01月号 [雑誌]

*3:『思想地図vol.3』の初めのシンポジウムでこれらは濱野智史磯崎新によって主題化されています。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

*4:『電子メディア文化の深層』所収の4つ目の論文など。

とりあえず身近なこと。ミクシーアプリについて。

最近は就職活動をすることに決めたので、具体的に現在の広告がどういった変動をしているのかを知るために簡単に勉強を始めています。


ここ2週間位で
湯川鶴章『次世代マーケティングプラットフォーム』*1
城田真琴『クラウドの衝撃』*2
野村総合研究所『仮想世界ロードマップ』*3
濱野智史アーキテクチャの生態系』*4
あとはGLOCOMの『智場』シリーズを4冊ほど、読んだりしていました。

どれ一つとして読んで無駄なものはなく、非常に勉強になりました。
どれが特に良かったとかも特になく、いくつかの観点から同一事象を対象化しているから、それなりに繰り返し同じことも書かれていたし、勉強になったなと。

濱野さんはやはり学問的要素が強く、「同期性」うんぬんあたりが非常に重要だし、即自的に自身に取り込むことのできる議論でした。
時間性をいかに分類するかということを思案していたので、非常に参考になりました。
なんにしても濱野さんは文章がわかりやすい。

『智場』やGLOCOMは本当に幅が広い。学者としてより、経営者などの目線で非常に勉強になる小冊子ですね。




そんな流れの中で、ミクシーアプリの広告的狙いがどういったものかを簡単に調べようと思い、今年の4月に行われていたミクシアプリのカンファレンス資料をネットで見たわけです。
で、検索したというより、ミクシ自体のHPにこういったページがあって、簡単にペラペラ見てたわけです。

http://mixi.co.jp/wp-content/uploads/2009/06/mixi_appli_guide.pdf


友人から招待を受けて簡単に参加してみたアプリでは、アプリ上に広告的なものがのっかっていなかったので、じゃあこれはミクシの広告戦略としてどういった意義を持たせたものなのか?と、普通に疑問に思ったから調べたわけですけども。


僕が友人から招待されたミクシアプリは無料で参加できるもので、アプリ内に広告が表示されてもいなかったんです。
となると、アプリ作成者はどういったメリットがあり、そこにミクシにもどういったメリットがあるのかがわからず。
それはそういったアプリを作成することによって、作成者自体のプログラマー的なPRとしての意味があるのか、作った人は単純におもしろくて作っただけなのか。みたいに思って。
あと、無償アプリで、そういうアプリをアップすることで、ミクシ自体の利益はどこにあるのか。
新機能によって新規ユーザーを獲得するサブリミナルな効果があるからなのか、単純にログイン時間を増やすことでミクシ自体の広告効果の拡大があるのか。
これはどういった論理で存在するのか、ちょっとよくわからなかったんですけど、教えて頂けたら嬉しいなと思ったりするんです。


ちなみにアプリを作成するには企業か個人が居て、おそらく企業であれば自社アプリに自社と関連するサブリミナルな広告効果を期待するでしょうし、アプリを課金アプリにすれば、アプリからの収入も得られるわけで。
課金アプリをするユーザーが日本でどれだけ確保できるのかはわからないですけど、、韓国のMMORPGとかはどういう課金制度になってるのかなぁと思ったり?調べなきゃ。あれはパッケージソフトとしてソフトが売られているのですか?まぁ調べろって話ですよね。。




なんにせよ、ミクシアプリも今月からモバイル対応になったはずですし、今後こういったアプリやゲームという形の中に広告が落としこまれていくのが当たり前になっていくのだろうと思います。
というより、ミクシのアプリはある種のセカンドライフ的な仮想世界でもあるわけで、その上での広告という形が当たり前になっていく。
EC系サイトとミクシなどが提携すれば、広告から直接購入へ繋がるようなシームレスなつながりが構築される可能性もあるわけですよね。
なんにせよ、うまくやっているというイメージがより強くなりました。




当然ここでは、ミクシアプリの作成される過程のミクシプラットフォームでのオープンソーシャルうんぬんの在り方もまた新しい物のひとつなんですよね。

普通におもしろいのは、東京に住んでいると当たり前だと思っているミクシが、たとえば東北とかだと5%程度の利用率だというのがおもしろい。
確かに東北大学の友人はミクシをやってないですし、「なんでやるん?」みたいな反応でしたし。




地域SNSとかとミクシのような全国SNSをうまく利活用した地域SNS同士のゆるやかな連携をもっと意図的に創出できればよいのになぁ、と思いつつ。

*1:

*2:

クラウドの衝撃――IT史上最大の創造的破壊が始まった

クラウドの衝撃――IT史上最大の創造的破壊が始まった

*3:

仮想世界ロードマップ――次世代Webへの対応が企業の明暗を分ける

仮想世界ロードマップ――次世代Webへの対応が企業の明暗を分ける

*4:

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

三項図式とシステム理論。自己の思考の枠組みの覚書2。

いきなり稚拙な絵を提示することになったのですが、システム理論のシステムが分出する様子を観察者から見たときの図式は単純にこれで把握できると思います。本当はすごいもっと様々に要素が連関しているんですけども@笑
詳しくはルーマンの『社会システム理論』*1を読んで頂くのが手っ取り早いですが、その前にシステム理論そのものの概略を把握するためには河本英夫オートポイエーシス*2なんかを読んでからでないと、うまく理解できないと思います。
僕は河本『オートポイエーシス』読了後、ルーマン『社会システム理論』へと移り、流れとして理解しやすかったなと思います。
あとは、現象学のエッセンスがわかっていないと『社会システム理論』は理解しづらいでしょうが、その参考としては西條剛央『構造構成主義とは何か』*3あたりでエッセンスだけなら理解しやすいと思います。

補足するならば、マトゥラナ・ヴァレラ*4などは現状では僕は読んでいません。それゆえきっちりと学を積まれている方には様々なご指摘を受ける必要性があるでしょうが、僕自身がシステム理論やルーマン理論のエッセンスを取り逃がしているとは思いません。
その部分に関しては自信があるので、揺さぶって頂けると嬉しいかなとも思います。


少しまた、話が脱線しました。


しかしまぁ、思いっっきり!!、単純化をするのであれば上のような図式としてシステム理論は記述することができるでしょう。


もしかすると舌足らずになるかもしれないですが、システム理論を理解する上でのエッセンスは、

①システム自己の視点 と 観察者の視点 の明確な区別
②システム自己の視点から見たとき、そこにはシステムにとっての内も外もない
③システムは自己の動的なオペレーションによって自己組織化しながら、環境との境界を形成し、分出している(ように観察者には見える)。

に集約することができると思います。



まず、①を前提としながら②を議論したいと思います。

システム自体の目線に僕たちの視点を同期してみます。
その時、システム自己の目線を取る僕たちに世界はどのように見えるでしょうか。
結論から言うと、システム自己である僕たちが設定した恣意的な形式として世界を認識していると言えます。
この恣意的な形式というところに、構造主義における構造が入るでしょうし、パラダイム論におけるパラダイムも入るでしょう。ルーマンも、このシステムの在り方を「構造」と呼んでいます。付記するならば、ノード・リンクのネットワークのネットワーク全体を「構造」ということもできるでしょう。
そして「構造」という概念により、システム自己が設定した恣意的な形式において世界を認識することが世界の無限の可能性を「縮減」するというルーマンのキーワードにも結びつきます。
くどいですがもう一度言いかえると、システムにとっては未知である環境をシステムが持つ認識の形式、システム流のコーディングを経てシステムは自己を組織し、自己をシステムたらしめています。


もう少し踏み込んで例証してみます。
システム理論そのものが科学的なエビデンスを持って発展してきたものであるのですが、ここではシステム理論そのものを例証する例としてふさわしくない僕たちの認識に関するたとえ話で、「システムにとっての内も外もない」ということを例証したいと思います。


例えば、僕(=システム)にとっての「現実」とはなにか?という問いを想定します(例として非常に悪い)。
様々な答えの幅が考えられます。想像されるものすべてが「現実」だとするならば、夢や幻や妄想もすべて僕にとっては「現実」ということになります。
一方、実際に眼前に触れられる範囲の出来事が「現実」であると考えることもできるでしょう。
いや、世界で事実として起こったものが「現実」だと考えることもできるでしょう、そうすればニュースで見る地球の裏側の出来事も「現実」と呼称されうる。


しかし、実はシステムにとっての「現実」を論じるにあたっての「現実」とは上記のような現実の質の問題ではないわけです。
実は、僕というシステムにとって「現実」というカテゴリーで認識される可能性のあるすべてのものが潜在的には「現実」足りうるわけであり、僕というシステムが「現実」であると措定するものはすべてシステムにとっては現実たりえるのです。


ここで重要なのは、システムにとっての「現実」はシステムが「現実」として認識する可能性のあるものすべてであるということです。そして、システムが「現実」として認識する可能性がないものは、システムにとっては存在すらしないものなのです。
つまり、システムにとって認識されていない「現実」などは存在しないが故に、システムが「現実」とするものには外部が存在しないと言える。そして、システムにとっては認識するすべてが「現実」であるが、認識外が存在すらしない故に、システムはすべてを認識していると思っている。それゆえ、システムにとっては外部や内部という区別すら存在していない、と言えるわけです。
それゆえ、システムには内部も外部も存在しない。言うならば、システムは常に「井の中の蛙」なわけです。


もしシステムが環境という未知のものを認識した瞬間、それはシステムにとって認識された「現実」になるのですが、システムはどういった形式としてであれ、自己のシステム自体の構造を変化させてでも、環境から得られた情報を既知のものの体系に取り込んで処理します。
そしてそれが、システムがシステムたる所以でもあります。
言いかえると、「井の中の蛙」であるシステムが井の外の新しい情報を認識した瞬間、井そのものを作り変え、新しい「井の中の蛙」へと変貌するのです。
システムが動的に自己組織し続けるものであるというのは、まさにこの変貌する動的オペレーションを指したものです。


なんにせよ、システムの視点を取ったとき、システムにとって内部も外部も存在しない。システムが認識するものはすべて、システムが「現実」として認識しているものであるわけです。システムが認識した時点でそれは環境ではなくシステムが認識した環境に置き換えられている訳です。



これが②の視点です。ここまではとりあえずシステム論そのものが持つひとつの重要な要素の説明です。

これがじゃあどう、三項図式と結びつくのかというところは③の観察者からの観点において明らかになってきます。
が、今日のところはここまでにします。
しかし、今日の文は煩雑になってしまいました。

言いたいことやシステムそのものの作動は実のところ非常に単純な発想だとは思うのですが、それを一般化して論じようとするとかくも難しいものなのかと痛感しています。

もっとうまくわかりやすく表現できないとと反省しています。

*1:

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

*2:

オートポイエーシス―第三世代システム

オートポイエーシス―第三世代システム

*3:

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

*4:

オートポイエーシス―生命システムとはなにか

オートポイエーシス―生命システムとはなにか